目標を持たずに生きてもいいんじゃない?

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現在私は東京大学の2年生で今年の春からは3年生になります。大学3年生ともなると就活を見据えて興味がある企業の説明会やインターンに応募したり、あるいは大学院進学を見据えて興味のある研究分野をリサーチしたりするのが一般的です。ですが私は何にもしていません笑。私は将来のことを考えるのが苦手です。私は目標を設定して計画通り物事を進めるのが苦手です。そんな私は今まで「目標って本当に必要なのかな?」という疑問を抱きながら生きてきました。目標を持って生きるのが苦手な私の話を少しでも聞いていただけたら幸いです。

 

まず私の経歴ですが、私は岐阜県岐阜市で生まれ育ち、公立の小中学校に通いました。いわゆる「お受験」などはせず、誰もが入学できる地域の小中学校です。その後高校受験を経て岐阜高校に進学し、東京大学に合格しました。私は現在に至るまでの間に様々な選択をし、様々な目標を設定してきたのですが、その中で「目標って本当に必要なのかな?」と感じた場面がありました。

 

私は中学3年の夏に部活を引退し受験勉強を始めましたが当時の私はまだ志望校が決まっていませんでした。しかし先生は志望校を決めろと言ってきます。さらに先生は、私の成績を考えて目標にするのにふさわしい高校を勧めてきます。しかし行きたい高校も特になかった私は、志望校を決めないまま受験勉強をしました。結局志望校を決めたのは受験間際になってからで、勉強と部活の両立を重視して志望校を決めました。

 

さらに高校1年生の時の進路調査でも志望校を書けと言われましたが書けませんでした。先生が私の成績と行きたい学部から考えていくつか大学を勧めてくださったのでとりあえずそれを書きました。ですがもちろん私はそれらの大学に行きたいとは思っていなかったし、行きたい大学なんてありませんでした。その後も志望校が決まっていない時期が長く続きましたが、勉強は人並みにコツコツやっていました。志望校を決めたのは2年生の冬で、先輩から東大には優秀でおもしろい人がたくさんいるという話を聞いて衝動的に東大に行きたいと思いました。それから私は目標を東大に設定し勉強し始めました。

 

これら2つの場面を振り返って私は、目標設定は強いられてするものではなく、目標にしたいと思えるものに出会うまで保留していいのではないかと考えるようになりました。不本意な目標を設定したところでやる気は出ないし、不毛な時間を過ごすだけというのが私の考えでした。しかし一方で、「目標がない時期もモチベーションを高く保てる人は少ないのではないか」「果たしてこの考えはみんなにあてはまるのだろうか」と疑問に思うようにもなりました。私は目標がなくてもモチベーションを維持できるタイプです。先に述べたように、私は中学時代も高校時代も目標を設定するのが遅かったのにも関わらず岐阜高校(県内1位の進学校)と東京大学に合格しましたが、それも志望校が決まってなかった時期でも高いモチベーションを維持して勉強していたからです。ではなぜ目標がないのにそんなことができたのでしょうか。今から考えると、それは単純に勉強が楽しかったからではないかと思います。楽しかったからこそ目標がなくても続けられたのだと思います。

 

以上のことを整理し一般化すると、「自分が好きなことは目標がなくてもモチベーションを保つことができる。そのため目標としたいと思えるものに出会うまで無理に目標を設定しようとしなくてもよいのではないか」というふうになります。では、私はたまたま物事を楽しむことができたから、将来のことを考えず生きてきても大丈夫だったのでしょうか。そう考えると、私は今まで、自分が楽しいと思えることを積極的に選び取ってやってきた気がします。選択に際しては、「楽しそうか否か」を基準に決めることが多かったと思います。

 

大学2年生の時に私は進学選択で悩みました。東京大学では受験時に学部を決めるのではなく、3年生に進級する時に成績に応じて行きたい学部を選択します。私の合格した文科2類という区分では経済学部に進学することがほとんどで、実際に私のクラスメイトのほとんどは経済学部に進学しました。しかし私は文系でありながら理系分野の勉強に興味が湧き、悩んだ末に工学部に進学しました。文系の学生が理系の学部に進学することは大変なことですが、この選択に関して私は「楽しそうなのはどちらか」「自分の興味はどちらのほうが強いか」ということを最優先にしました。このように自ら楽しいと思える選択をすることが、目標を持たずに生きていくために重要ではないかと思われます。

 

長くなりましたが、ここで述べたことは目標を持たずに生きることを推奨するものではありません。あくまでこれは、私のような将来のことを考えるのが苦手な人にとっては、好きなことを優先するということが重要なのではないかという提案です。もし、みなさんの中に私のような疑問・違和感を抱えて生きている人がいて、この文章に少しでも共感していただけたら幸いです。

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