Celebrate Diversity。カナダの教育について学んでいた際に触れ、とても気に入っている言葉だ。
多様性の存在を、表面的に「楽しむ」のではなく、みんなで「喜ぶ」感じ、大事にしようという感じがするのが、この言葉の好きなポイントだ。
話は変わるが、最近、私はこれまでマジョリティとしての自分を捉える力が弱かったということを痛感している。
元々、私自身も様々な差別に加担してしまっているということ、偏見をたくさん持っているということは自覚しているつもりだったのだが……。
きっかけは、数ヶ月前、先住民教育に興味を持ち、特に日本の先住民族、アイヌ民族について学び始めたことだった。断定はできないが、私にはアイヌ民族や琉球民族のルーツはなさそうである。そのため、私はマジョリティである和民族(和人)としての立場から、このトピックに関わることになる。学べば学ぶほど、自分がいかにアイヌ民族や琉球民族に対して偏見を持っていたか、アイヌ民族や琉球民族にルーツのある人を否定するような考えを持っていたかに気づいた(ちなみに、私は気づいた自分自身の偏見や差別意識について、すべてメモするようにしている)。
泣くほど悔しかった。
特に悔しかったのは、私が漠然と日本を「単一民族国家」だと感じていたことだった。
思い出されたのは、小学校か、中学校か……義務教育を受けていた頃の自分の記憶だった。「単一民族国家」と「多民族国家」という単語を初めて学んだ社会科の授業。多民族国家の例としてあげられたのは、アメリカやカナダやオーストラリア。そして、単一民族国家の例としてあげられたのは、あろうことか日本であった。その日覚えた新しい単語や授業で習ったことを両親に話すのがルーティーンであった幼い頃の自分は、その日も家に帰って、両親にこの話をした。「日本は単一民族国家なんだって!」と。それに対し、私の母は、「うーん、そんなことないんじゃない?」というような反応をした。しかし私は、「え、でも授業で単一民族国家って言ってたよー?」と返し、特に疑問も抱かなかったのである。
最悪だ。私は頭を抱えた。この記憶がどこまで正しいか分からないが、母に確認したところ、母もそのような記憶があるという。
痛いほど実感した。学ばなければ、教育の場がなければ、私たちは誰かを傷つけ否定してしまうのだ。無意識のうちに。
悔しくて仕方がない。少しでも誰かを傷つけない自分でいたいと思っていた幼い頃の自分。私が前のめりになりながら受けた授業は、一生懸命取ったノートは、そして私が学んできたことはなんだったのか。
私は、学ばなくてはならない。これまでの私が学んでこられなかったことを、これから丁寧に学んでやる、と決意した。
私がマジョリティとして差別構造や特権の問題に向き合うとき、そのエネルギーの源は、「かわいそう」だからという同情ではない。勝手にトランスジェンダー男性としての自分の経験を重ね合わせ、同一視しているのでもない(そういった見方が重要になる時はあると思うが)。
やっぱり、悔しいからだ。特権に甘んじ、誰かを傷つけながら生きているままの自分を、放っておくということは。
このことが言語化できるようになったことは、私にとってとても重要だと思う。
ただ、実際にマジョリティという立場を自覚しながら、マジョリティ・マイノリティの権力関係を巡る諸課題を考えようとすると、マイノリティの立場から見ているだけでは気が付かなかった、様々なマジョリティの心理的壁にぶち当たる。とても興味深い経験だと思う。
例えば、先に述べたCelebrate Diversityという言葉も、どういう意味合いで、どういう気持ちでマジョリティである自分が使うのかということをとても考えさせられるのだ。これまでは、そのような葛藤を考えたことはなかった。勉強不足だったと痛感する。
マジョリティ・マイノリティの権力関係に関わる課題を、マジョリティ問題として位置づけ議論していくことの重要性は、近頃多くの研究者が指摘している。
私はもっとこの問題と向き合わなくてはならない。
これからまた考えが変わるかもしれない。その時には、また記事を書こうと思う。
東京大学文科三類。教育学部推薦8期生。トランスジェンダー男性。教育、文化、芸術などについて日々吸収中!特技は吸収。