宗教と科学

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私は、将来研究者になりたい。もっと具体的に言うと、材料化学を専攻し、環境に優しく、暮らしを便利にするような物質を作り出したいと考えている。

一方で、大学入学共通テストの対策のために「倫理、政治・経済」という科目の勉強をし始めた。倫理分野では、世界のさまざまな宗教や、思想が多く登場する。それらは現代に生きる我々とは真逆の価値観であることも珍しくない。

科学を学ぶ自分と、宗教・思想を学ぶ自分。この二つの自分が同時に存在することにより、だんだんと次のように考えるようになった。

 

「宗教と自然科学。

一般的には、相反するものとして考えられていると思う。

しかし、見方によってはかなり似通っているものではないだろうか。」

(ここで私はそのどちらかが優れている、と主張したいのではありません。)

 

神の言うことは絶対。我々は神に従うほかない。

科学的に正しいものは絶対。科学技術がないと生きていけない。

 

かつては(現在も一部では存在するが)、学校で宗教について学ぶことが、国を挙げて行われていた。政治も、占いや、教典に従って行われていた。

現在は、学習指導要領に沿って小学生から理科の授業があり、国が研究機関を運営している。

そして、政策決定も科学者の意見を取り入れることが多い。さらに、日本においては政教分離の原則がある。

 

ここで、同じ事象が現代と昔で真逆に考えられている例として、天動説と地動説について考えてみる。

かつては、星を「神が」動かしているという考えを含む、天動説が支持されていた。

現在は「科学的根拠によって」地球は動いていると主張する地動説が支持されている。

天動説を支持していた人々からしたら真逆の考えである。

 

天動説が優勢だった時代では、地動説の支持者は、地動説を支持するのはありえない、神を冒涜するのか、と嘲笑されていたかもしれない。

地動説が優勢な現代、昔の人々が天動説を支持していたのは、科学技術が発達していなかったからだと嘲笑している人がいるかもしれない。

 

考えてみてほしい。神が絶対であった時代、神ではなく科学技術による証明が絶対に正しいと思われる時代がくると想像できていただろうか。

これは現代においても同じことが言える。

現代に生きる我々の多くは、自然科学が絶対だと考えている。だから国も科学技術の発展のためにお金をかけるし、教育活動もしている。

 

私は自然科学を学び、それを用いた仕事をしたいと考えているが、その仕事に就いた後も常に頭の片隅にはこのような考えが渦巻いていると思う。

 

ここ数百年どころか、十数年でも価値観が大きく変わっている現代。我々が生きている間に、自然科学が絶対であるという時代が終わるかもしれない。新しい価値基準となる概念が生まれるかもしれない。それはいつになるのかわからないし、このコロナ禍で生まれている最中なのかもしれない。


 

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