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社会人になる直前から最近にかけて、上野千鶴子『女ぎらい ニッポンのミソジニー』の文庫版を今さら読んだ。

当然、生きてきた時代からして違うため、見解不一致や言い過ぎ感もあった。しかし、それ以上に納得した点が多く、自分のなかでの解像度も上がったように思う。そのぶん刺さったこともあって、読み終えるのにはそれなりに時間がかかった。

以下の文章は自分語りである。しかもありふれた内容であり、どちらかというと私が書きたいから書いているに過ぎない自己満足である。せいぜい、同じような問題にぶち当たっている人や興味のある人の、何かの足しになれば、といったところだ。

人によっては、見たくもないストリップを目の前で披露されるくらい嫌な内容かもしれないので、ここまでで警戒した方はブラウザバックしていただいて構わない。

 

私は、中高一貫女子校の出身だ。しかも、塾にも通っていなければ、大会や交流会などで同年代男性と接する機会もほぼなかった、生粋の別学経験者である。

だから共学の大学に入ったとき、小6のガキんちょ以来の同年代男性が自分とはまったく違う生き物に見えて、どう接したらいいものか途方に暮れた。

挙句のはてに当時の私が編みだした解決策は、「同じ人間として見ること」だった。事実、1年生の途中で元彼とお付き合いを始めたときの理由のひとつは、魅力的な男だと感じたからではなく、ひとりの人間として非常に興味深かったからだった。

 

そうは言ったものの、実は小学生高学年のころから、「カッコいい / わるい」「かわいい / かわいくない」「一般的に価値の高い身体 / 低い身体」といった評価基準は、自分に対しても他の男女に対しても持っていた。(だからたとえば、腹や脚は太いのに胸は大きくならないことを少し気にしたり、同性の素敵な人にちょっと憧れたりもした。)

だがやはり、当時までの私は、「男の視線」をそれほど強くは内面化していなかった。

 

所属コミュニティの男女比が同数に近く、しかも男女が身分上対等な、完全共学の環境で4年間を過ごした。

途中から、人間ではなく男として男性をどこか品定めしている自分がいること、男から見て魅力的な女だろうなという目で女性を見るときがあること、魅力的な女に映っていてほしいという観点でも自分をモニタリングしていることに気づいた。

 

愕然とした。と同時に、やっぱりな、と思った。少しの落胆と諦めと安堵があった。

私もいわゆる女だったのだと、はっきり思い知った。

スカートやパンプスが好きだという話ではない。そんな瑣末なことではなくて、もっと根っこの部分の話である。

 

10代後半のとき、当時以降の自分自身に対して課したモットーおよび見せ方は、

「恋には恋しない、結婚願望とは結婚しない」。

だが近年の私は、女として男を評価し、女として自分を評価・演出し、ときに男の視線を借りて他の女を眺めさえもする。そっちのほうが、人間として接するよりも、むしろデフォルトになっているかもしれない。

ついでに言えば、なんとなく寂しいような夜もある。頼れる男に甘えて縋りたくなることもある。私はそんなに強くない。

絶望して変革を試みるほどの自己否定ではないが、気色の悪い話だ、と思う。

 

正真正銘の女としても生き始めた一方で、周囲の優れた人たちには遠く及ばないが、自分だってそれなりの能力と意志と可能性を持っている、という自負もある。

 

「かわいいだけのペラい奴」「着飾って高学歴男子を狩りにくる女」への冷笑。

専業主婦には死んでも生き返ってもならないという個人的な信条。

 

絶対的な自信ではなく、他者の否定をベースにした自信だから、所詮はハリボテ。上野千鶴子に言わせれば、これもミソジニーかもしれない。いつか乗り越えなければならない、自分のなかの柵なのだろう。

それでも今までの私にとっては重大な基礎のひとつだ。それに、私自身への信頼には根拠がなくても、私の育った環境や私に投資されてきたものや私の出会ってきた方々については、絶対に恵まれていると断言ができる。

 

結局は多少なりとも自負があるからか、女としてしか生きていないように見える人——実際にお見かけした特定の人物であれ、私が一般的に「そういう人」として話の的にする仮想の人物であれ——に対して、「そこまでエネルギーを傾けられること自体は天晴れ、尊敬できる。そういう生き方もナシではないんだと思う。だけど少なくとも私は、そうはならない、なれない、なりたくないし、私個人はあなたに人間としての深みを感じない」という評価を下してしまう。

そういう私は何様なのだろうか。その子たちより、よっぽど揺らいでるくせに。

ただの女としてではなく、男になりきるのでもなく、生きていく道すじはあるのだろうか。

あったとして、それは私にもできるのだろうか。

 

私は普段の振る舞いから意識して心がけられるほど殊勝ではない。むしろ普段は感じるままに行動して、ときどき自己を顧みては美点も浅ましさも娯楽として鑑賞するような、無責任な輩である。

でもこればかりは、少なくともこの先大きな意思決定をするときくらいは、向き合わなければならないことに違いない。

 

まだ一向に結論は出ないが、いろいろ選択を積み重ねて、人生が終わるときまでには私なりの答えを手にしていられたら、と思っている。


 

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