恐れることなく発信できる場を創りたい

ボイス
18+

「些細な」出来事を経験した人が、そのまったく些細ではない思いを何の障害もなく発信し、解消していけるような場が生まれてほしいと思ってきました。
自由に素直に表現し、耳を傾けることが尊重されているこのボイス・オブ・ユース JAPANのサイトを知った時、ここでそのような場を創りたいと強く思いました。
そこでそのような場を創る一歩として、以下では、私に起きたある「些細な」出来事と、それ以降に私が経験したことを綴ります。


2013年6月15日土曜日、午前7時の数分前、私は学校に行くためにバス停でいつも通りにバスを待っていました。バス停は大通りに面していましたが、土曜日の朝早くなため、通りの店は開店前で、車も歩行者もごくわずかでした。


そこに、私の左手の方から一人の男が走ってきました。私は男を目の端で捉えました。男は半そでに短パンで真っ黒なサングラスをしていました。私は、「ランニングだな」と思いました。


その数秒後、男は歩調を緩めずに、私にぶつかってきました。
その瞬間は状況を把握するどころではありませんでした。
ただ、思わず体勢が崩れて膝をついてしまうほどの物理的な衝撃に対して、とっさに叫びました。
叫んだのとほぼ同時に、私は抱きつかれたのだと理解しました。
直後に男は走り去りました。

私はまず立ち上がりました。その瞬間から頭の中に次々と考えが浮かびました。

どうしよう?
家に帰る?
いや、男に自宅がばれたら困る。
じゃあどうする?
バスに乗る。
それで?
駅に行く。
それで?
学校へ行く。
それで?
それで?
それで?

すうーっとバスが来ました。私の頭からは一時的にいろんな考えが飛んで、そうプログラムされたロボットみたいに自動的にバスに乗っていました。


それから、いつもの電車に乗って、いつものスクールバスに乗って、いつもの時間に学校へ行きました。
いつものように一限目と二限目の授業を受けました。
三限目の美術の時間に、朝の出来事を友達に話してみました。すると、親に話したほうがいいと言われました。

その日は土曜日なので、授業は四限目までしかありませんでした。大抵の土曜日がそうだったようにその日も、会社が休みの両親が学校の最寄り駅まで車で迎えに来てくれていました。私が車に乗ると母は、8月の旅行に持っていくために新しいビーチボールを買ったと嬉しそうに言いました。私はその話を聞いてから、友達の助言通りに朝の出来事を親に話してみました。
親はいつになく大きな声を出して慌てた様子でした。そして父の運転する車は、迷いなく警察署へと向けられました。

私は母に警察署の窓口に連れていかれました。
男性の警察官が、机一つとそれを挟んでソファ二つがある小さな応接室のようなところに、私と母を通しました。対応する警察官が男性であることと、部屋の扉が開けっ放しで、すぐそこを他の警察官や利用者が行き来していることに強い違和感を感じました。

その時に警察官とどんな会話をしたのかは、今ではほとんど覚えていません。ですが、ひとつだけはっきりと覚えていることがあります。
警察官が「男の髪形は?」と言いました。
私はなんと形容すればいいか分かりませんでした。
すると、警察官は「じゃあ、前髪はどんな感じでしたか?」と言いました。
私は、男の前髪がとても短くて全く額にかかっていなかったことを思い出し、「前髪はありませんでした」と言いました。
その答えを聞いた途端、警察官と母がぷっと笑いました。
「なかったって...」といいながら母は笑っていました。

もういいや。

私が出来事について淡々と話しており、室内はさして重い雰囲気ではなかったため、前髪がなかったという意外な発言につい笑みがこぼれただけだということは分かってはいました。それでも私は、笑う二人を見て、経験したことのない人に理解を期待するほうが間違っているのだと思い、理解を求めることも、そのために伝えることも静かに諦めました。

警察署を出て、父が待つ車に乗り込みました。私は、当時あまり好きではなかったピアノのレッスンが終わった時のように、やるべきとされていることをとにかく果たしたというような気持ちでした。
それからスーパーへ行きました。私はスーパーではいつになく周りが気になりました。豆腐が並んでいる棚の前で、すぐ後ろに誰かいるんじゃないかという思いに駆られ、何度も振り返らずにはいられませんでした。

その日は夕方に、両親とともに芝居を見に行く予定が入っていました。私は自分が外出したいのか、したくないのかも分からないような気分でしたが、チケットを無駄にしたくない思いと、両親に事件のことを気にかけさせたくないという思いで、予定通りに芝居に行きました。
私は、指定された座席に最初から最後までただただ座っていました。


事件の日から、警察官が捜査をしたことはありません。ただ、二回だけ、私がバスを待っている時間帯にバス停付近を白バイが走っていました。
現行犯逮捕以外では捕まえようのないような事件ですから、警察官はせめて見回りをすることにしたのですし、その判断が正しいことも分かっていました。
ですがそう分かってはいても、人員を割くに値しない出来事なのだと突き付けられたような思いがしました。
私に起きたのは、あまりにも些細でつまらなくてどうでもいい出来事なんだと思いました。

私は、そんな些細なことならさっさと忘れてしまおうと強く思うようになりました。
事件については、警察署で話した時を最後に、ほとんど話しませんでした。それは、自分ができるだけ考えないようにしたいという思いと、誰の記憶からも事件のことが消えてほしいという思いからでした。ただひたすらに、なかったことになってほしかったのです。

ところがそのような思いとは裏腹に、事件から一週間後の土曜日、母はバス停に行く私について来て、私がバスに乗るまでずっとバス停にいました。
その次の土曜日も、その次の土曜日も。そんな週が何度続いたか覚えていません。
私は母がついてくるのが嫌でした。
当時私は、あの男が警察に報告された報復に私を殺しに来るのではないかと恐れていました。朝家を出るときには「今日生きて家には帰れないかもしれない」と密かに覚悟を決め、夕方帰宅した時には「一日命が伸びてよかった」と安堵し感謝しました。
そんな心理状態だったので母がバス停に来てくれるのはほっとできることではありましたが、それよりも、なかったことにしたい事件を母が覚えているんだということを突き付けられるようで嫌でした。

月曜日から金曜日に一人でバス停と家を行き来するときは、恐怖で足が止まりそうになることもありました。ですが、一度足を止めれば二度と歩き出せなくなると思ったので、とにかく足を前に出すことに集中して、なんとか登下校しました。
事件をなきものにすることと、事件によって学校へ行けないなどの不利益を自分が被らないようにすることが、当時の最大の目標でした。
そうして、土曜日の朝に母がついてくる以外は、表面上は事件前となんら変わりなく生活しました。


事件から何週が経っていたのかは分かりません。ある時から母が土曜日にバス停について来なくなりました。
私は、母の中では事件は終わったんだと思いました。
ですが、私のなかでは全く終わっていませんでした。依然として家からバス停までの行き来には強い恐怖がありました。事件のことを思い出さない日はありませんでした。

私は、事件が忘れられてなきものになることをあれほど望んでいたにもかかわらず、ここにきて、事件が自分の頭の中以外では薄れていくことに違和感を感じるようになっていました。
当時私は、自分の事件は捜査が全くされていないので、法律上は事件として認められていないのだと思い込んでいました。
事件の存在が、法律に認められず、両親から忘れ去られてしまったなら、もう事件は自分の頭の中にしか存在しないのではないか?
自分の頭の中にしか存在しないものは、妄想と何の差もないのではないか?
ならば、自分は自分の妄想に苦しんでいるのか?

そんな思いが頭の中をぐるぐる回り、事件を誰かに認知してほしいと思うようになりました。

ですが、家族や友達に思いを話すことは絶対にできませんでした。むやみに心配させることも、相手の何気ない言葉に対して「わかってくれていない」と自分が感じることも避けたかったからです。

新聞への匿名での投書など、顔の見えない場で発信してみようかと何度も考えました。
ですが、こんな些細な事件のことを発信すれば、もっと重大な目に遭った人や全く事件に遭ったことのない人から「被害者面して」と嘲笑されるのではないかという強い恐れがありました。
警察署で警察官が男性だったこと、人通りの多い通路に面した部屋に通されたこと、母と警察官が笑ったこと、なんの捜査もなかったこと、それらの経験だけで、自分の事件がいかに些細なものなのかは思い知っていました。
事件について発信して、多くの人から「些細なことで被害者面するやつ」と認定されるようなことになったら...
そう考えるだけでも、事件のこともその後の自分の気持ちも全てひっくるめて、自分の存在ごと隠したくなるくらいに怖くなりました。

ただ、一度だけ作文コンクールに事件のことを書いて出したことがあります。それは大きなコンクールだったので、自分の作品は絶対に選ばれず、審査員一人くらいにしか読まれないだろうと思ったので、提出に踏み切れました。そして案の定入選せず、私はひどく安心しました。
それ以降は事件については黙り続けました。


それから数年がたち、私は東京大学の文科一類に入学しました。

文科一類は、そのうちの多くの学生が3年生以降に法学部へ進学する科類です。私が文科一類を選択したのは、二つの目的から法学を学んでみたいと思っていたからです。
一つは、事件以降、事件を起こした男に復讐したいと思ってしまうことが時々あったため、法学を学ぶことでその気持ちを静めるという目的です。
法学を学ぶことでそうした衝動をコントロールするというのは、奇妙に聞こえるかもしれません。
ですが私は、事件以降、学ぶことが気持ちの管理に非常に役立つと感じてきました。例えば、朝一人でバス停へ行くときにどれだけ強い恐怖を抱いても学校を休んだことがなかったのは、恐怖によって学校を休めば事件によって自分にもたらされる不利益が大きくなるのだと考えて、事件からこれ以上の不利益を受けないようにしようと思えたからでした。
このように、強い感情から一時的に脱して、自分の行動の結果を冷静に予測したうえで行動を決定できるのは、科目を問わずあらゆる学習によって思考が鍛えられているからだと思いました。だから、法学を学んで新たな思考を鍛えることができれば、自分の衝動をコントロールできるようになると考えました。
もう一つの目的は、自分の事件の存在が法律に認められていないのかどうかをはっきりさせるということです。
私は、事件が一切捜査されなかったことで、事件の存在が法律上認められていないように感じ、苦しく思っていました。将来仕事に就いて法律に従って税金を納めたとしても、事件に法律は適用されないのだろうかなどと考えては、その不合理さに憤っていました。だから、自分で法律を学んで、本当に事件の存在が認められていないのかどうかを知ろうと思いました。

一年次から法律の基礎の授業を選択できたので履修したところ、私の持っていた二つの目的はみごとに達成されました。
一つ目の目的に関しては、刑法が何のために存在するのかや、民事事件において賠償責任がどこまで認められるのかといった問題を考えるなかで、自分の新たな思考が鍛えられたように思います。そしてその思考は、衝動が出てきたときのコントロールに確かに役立ちました。そして、衝動が湧き上がってくること自体がだんだんとなくなっていきました。
二つ目の目的に関しては、公訴時効について定めた刑事訴訟法第250条があることを知り、法律によって私の事件の存在は認められているのだと思えました。


今では、かつて抱いていたような衝動や憤りを感じることは滅多になくなりました。
道を一人で歩いているときに感じる恐怖もずいぶん小さくなりました。

けれども、いまだに克服できていないものが一つあります。
それは、自分の事件について発信することで、人から「些細なことで被害者面して」と嘲笑されるのではないかという恐れです。私はその恐れを克服したいとずっと思い続けてきました。

そしてある日、私はボイス・オブ・ユース JAPANのチラシを手にしました。
自由に素直に表現しよう、耳を傾けようと訴えかけてくるチラシでした。

ここで発信したい。

その日のうちにライターに応募しました。



今この記事を書いているときも、恐れはあります。
ですがそれ以上に強い願いがあります。

「些細な」出来事を経験し、出来事の「些細さ」ゆえに苦しんでいる人が、そのまったく些細ではない思いを何の障害もなく発信し、解消していけるようにしたい。


この記事が、発信したくてもできずにいる人の後押しとなれば幸いです。 


 

18+

東京大学在学中。趣味は観劇と読書。言葉で発信し続けるマララ・ユスフザイさんを尊敬しており、いつか一緒に仕事をするのが夢。ペンネームは、マララさんがBBCのブログに投稿した際のペンネームである「Gul Makai」の日本語訳。