去年のこと。自分の原点に立ち返ろう、そう思い立ってアメリカ行きの飛行機を予約し、クリスマス翌日に飛行機に乗り込んだ。
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乗り換えのため、ワシントンD.C.の空港に降り立つと、入国審査の長蛇の列が僕を待っていた。何百人もの人が並んでいるのに、審査のカウンターに2人しか人がいない。絶対に人員を増やした方が良い。スマッシュブラザーズをやったことのある人だったら誰でも、百人斬りがいかに大変か知っているはずだ。
後ろに並んだ眼鏡の女性が「カモーン・・・」と呟いてソワソワしている。「先行きます?」と聞くと、諦めたような表情で「いや、いいよ」と言った。乗り換えの飛行機に間に合うか心配なようだ。シンガポールから、家族に会いにこっちへ来ているらしい。日本にも来たことがあるそうで、日本のトイレを絶賛していた。ウォシュレットに感激したと言っていたので、「ウォシュレットの動画撮ってインスタにあげれば良かったのに」と冗談で返した。「あげたわよ!」と彼女は声を跳ね上げる。想像を上回る答えに言葉を失う。
ようやく順番が回ってきたと思ったら、既に並び始めてから1時間も経っていた。乗り換えの飛行機、間に合うといいね。そう思いながら、僕も次の飛行機を探して小走りでゲートを後にした。
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アメリカについてまず向かったのは、メリーランド州だった。高校生の時に、留学生として10ヶ月を過ごした街に向かう。10ヶ月というのは長い月日だが、こと多感な高校生にとって10ヶ月は人生の大きな転換点たりうる。僕の場合は間違いなくそうだった。英語が得意だと思っていた僕の鼻はへし折られるどころか鋭い太刀で一刀両断され、人生で初めて孤独を味わうことができた。
中心都市のボルチモアにある駅に着くと、当時のホストブラザーが待っていてくれた。どっしりとした体型は変わっていないが、髪を肩の辺りまで伸ばし、長い髭を生やしている。肩の辺りにタトゥーも入れたらしい。7年も経つと人は変わるものだ。待ってたよ、会えて嬉しい。肩を叩きあい、停めてあった車に乗り込む。今から、留学生活を共に過ごしたホストファミリーの家を訪れる。
家を訪れると、ホストファミリーが出迎えてくれた。白い髭を蓄えたホストファザーは、7年前から変わらずカッコ良い。高校の門の横につけた銀色のBMWの運転席で、サングラスをかけ葉巻を咥えて僕を待っていた姿を思い出す。映画俳優みたいだった。生きていると、映画みたいな光景を目にすることがある。
7年ぶりにホストファミリーと食卓を囲んだ。お父さんに、お土産に持ってきたお猪口と、余市のウイスキーを渡した。北海道の余市は海に面した寒冷な土地で、澄んだ水に磯の香りが溶け込んでウイスキーに独特な味わいをもたらす。アメリカ北東部の湾岸に位置するメリーランド州と気候的に似ている土地で作られた、それでいて日本ならではの清冽な味わいを持っているこのウイスキーがお土産にぴったりだと思ったのだ。そう伝えると、お父さんは笑みを浮かべながらお猪口を傾け「何かに似ている気がするな」と呟いた。
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次の日の夕方から、ホストブラザーがボルチモアのダウンタウンを案内してくれた。この街には死が溢れている。高速道路には、轢かれた鹿や猫の死体が横たわっていた。街を歩くと、大通りから外れた小道の側壁に男の人の写真と花が立てかけられていて、スプレーで「安らかに」と壁に書かれている。数週間前、ここで人が撃たれて死んだんだ。そう言ってホストブラザーが通り過ぎる。僕も歩く。
夜はホストブラザーが友達を連れて「バー」に連れて行ってくれた。実際に入ってみたら、バーではなくて轟音で四つ打ちの音楽が流れるクラブだった。隣に立った金髪の女性が、僕のことを見て爆笑し始めた。何故笑っていたのか、分からない。小学校の先生をしているらしい。「あの子たち、ホンマ可愛いねん。でもな、ワシが静かにせぇや〜言うたら、いっつもこういうんや。『フゥオオオ!!!!!』」そういうと、またケラケラ笑い始めた。何故関西弁なのか、分からない。彼女は英語で話していたが、僕の頭の中にはグリコの大きな看板が思い浮かんでいた。「さぞかし人気な先生なんでしょうね、良いことじゃないですか、子どもに好かれるのは」僕がそう言うと、彼女はギロリと僕の目を見据えて静かに息を吸い込んだ。「『フゥオオオ!!!!!』」クラブを後にする。
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次の日はホストブラザーとワシントンD.C.に行って、国立アメリカ歴史博物館を見学した。第二次世界大戦の展示会場に足を運ぶと、焼け野原になった広島の写真が展示されていた。見つめていると、隣に親子がやってきた。父親が息子に言う。
「ここに原爆が落ちたんだよ」
「へえ、そうなんだ」
「ほら、何も残ってないだろ」
子どもがこう答えたのを、僕は忘れない。
That’s so cool.
僕の祖父は、自分の家族の話をあまりしない。でもいつかの祖父の誕生日、ぽつりと祖父の父の話をしてくれた。お父さんは戦争で全身に傷を負い、命が長くもたない。そう言われ祖父は病院に駆けつけた。身体にガラスの破片が刺さった父が病床に横たわるのを見て、別れを悟った。訥々とした語り口で、そう語ってくれた。祖父の父だけではない。多くの方々が亡くなって、その方たちを愛する多くの方々が癒えない傷を負った。その惨禍を切り取った写真を見て、あの子どもはテレビ番組でも見ているかのような言葉を放って去っていった。耳にいつまでも子どもの声が残っていた。悔しくて、悲しくて、許せなくて、ベンチに座り込んだ。涙が止まらなくて、しばらく立てなかった。
その日の夜はNBAの試合を見に行った。ワシントンD.C.を拠点とするWizardsと、ニューヨークを拠点とするKnicksの試合だ。なぜかホームのWizardsファンよりアウェーのKnicksファンの方が観客席を埋め尽くしている。Knicksの11番、ブランソンという名前の選手がひたすら点を決め、観客がMVP!!MVP!!と歓声を飛ばす。Wizardsの選手がドリブルすると地割れのようなブーイングが起こり、ディーフェンス!!ディーフェンス!!とコールが沸き起こる。試合は延長戦までもつれこんだが、先程までの勢いが嘘のようにWizardsは失点を許し続け、Knicksの勝ちが明らかとなった。試合の終わりを決めるフリースローを横目に会場を後にした。中身の入ったスプライトをゴミ箱に捨てて良いのか分からずホストブラザーに聞くと、怒った口調で「Yes!!」と怒鳴られた。応援していたチームが試合に負けただけで苛々する人の気持ちが、僕は分からない。自分が試合に出ていた訳でもないのに、なぜ怒るのか、正直理解できない。こんなことを言ったら、スポーツを愛する人たちにボコボコにされそうだ。僕にはスポーツが向いてないな、そう思う。
次の日の朝、ホストファミリーの家を後にする。高校時代お世話になった先生方とボルチモアに向かい、ずっと食べたかったクラブケーキを食べた。ボルチモアは蟹が有名な都市で、蟹の切り身にマヨネーズや野菜を混ぜて揚げ焼きにしたクラブケーキが名物料理だ。僕は良く周りの友達に「俺は毎日3食パスタでも生きていける」と豪語しているが、パスタをクラブケーキに置き換えても同様である。先生方は、ご飯を食べた後にショッピングモールへ連れて行ってくれた。新しくラウンドワンができたらしい。中に入るとお台場と変わらないゲームセンターがあって、家族連れや学生で溢れていた。「日本でもラウンドワンは人気なの?」「少なくとも僕は高校時代をお台場のスポッチャに捧げました」そんな話をする。先生たちと別れて、ホテルに向かう。明日はニューヨーク。早いバスに乗ってボルチモアを後にするので、それに備えて早く寝る。
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高校生の頃にこの街に来た時は、もっとビクビクしていた気がする。危ない通りもあるから気をつけてね、英語を勉強してから行くといいよ、乾杯する時は目を見てね。色々な人のアドバイスは、逆に僕の身体をこわばらせた。あの頃と同じ街の景色は、僕という人間の内部で生じた差異を際立たせた。久しぶりに会えて良かったよ、去り際にそう伝えた時のホストファザーの言葉が頭をよぎる。
「お前の部屋はずっとお前の部屋だから」
次にこの部屋に来る時、僕はどんな人間になっているだろうか。

ドラマー。映画好き。

