他者と共にあること

日々/自分
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私は小さい頃から怖がりで、人間関係を築くのが下手で、そして寂しがり屋な人でした。学校でもなんとなく周りに馴染めずに、人と仲良くなるには、深い人間関係を築くにはどうしたらいいのかと悩み、自分にはできないのではないかと諦念を抱くこともある日々でした。でも、最近、人と共にあることについて、小さな一歩を踏み出すことができたと感じています。

自分が今まで考えてきたことを書き残し、自分が人との関係に勇気を持てたきっかけについてお伝えしたいと思います。

 私は昔から今までずっと、人が怖かったのだと思います。些細な一言にとても傷ついて人の輪の中に入っていけなくなったり、相手の顔色を伺って期待から逸れないように、「普通」の範囲を逸脱しないようにと、とても気を遣ったり。自分に自信がなかったから、誰かに認識されること、印象に残ることが怖かった。そのくせ、誰の印象にも残らないと、自分がこの世界に存在していないような焦りや切なさを感じました。

 高校生くらいになると、クラスメイトや友達と話題が合わないこと、考えていることが違うことが多く、いつも自分が間違っているような気がしていました。人と同じように「普通」に考えられず、人と同じことを「普通」にできない自分は、何か欠けているものがあるんじゃないかと不安になって、よりいっそう人の顔色を伺うようになりました。友達と話していても、相手の話を聞いてばかりで、自分の興味のあることや自分の意見を言えず、「自分のことを話さない人」という印象を持たれがちでした。今思うと気にしすぎだったのだと思います。でも、「自分の話が相手にとってつまらなかったらどうしよう」「意見が違って不快な思いをさせてしまったらどうしよう」という想像ばかりをしていました。本当は自分のことも話し、色々な人と関わっていたいと思っていたにも関わらず、その一歩を踏み出す勇気が出ず、そんな自分を寂しく思っていました。

 そうしているうちに、人と深い関係を築く方法も、自分の思いを伝える方法もわからなくなりました。

 そんなある日、大学の授業で「共生とはハーモニーではなく、ポリフォニーだ」という言葉と出会いました。ハーモニーとは、和声のこと、つまり音と音が調和しあっていることを言います。そしてポリフォニーとは、独立したいくつかの声部からなる音楽のことです。つまり、他者と共にあることは調和することではなく、違った考えや思いを持った人々が、違ったまま共にあることだという意味です。

この言葉と出会ったとき、私はあたかも雷に打たれたような衝撃を受けました。今まで、うまくやっていくために、相手に合わせたり、言いたいことを我慢したり、顔色を伺ったりと、人と調和することを目指してきた自分。いつの間にか力の入っていた肩がすっと楽になりました。自分の意見を持っていい、相手の期待を勝手に想像してその中に入ろうとしなくていい、「普通」でいようとしなくてもいい。人と違ったまま、「私」としてそこにいることを許された気がしました。

 今でも人と関わることが得意とは言えません。でも、周りにいる人を大切にしたい、色々なことを話したいと思うから。「共生とはハーモニーではなく、ポリフォニーだ。」この言葉を大事にして、ちょっとだけ前向きに人と関わってみようと思うのです。


 

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