他者から学ぶということ —アフリカという他者をめぐって—

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私は東京外国語大学のアフリカ地域専攻に所属している身なので、アフリカのことを書かせてほしい。読者の中には、アフリカというテーマをとることの必然性がわからない、という人がいるかもしれないし、それは或いは読者の大部分かもしれない。実際、特に必然性はない。アフリカ、というテーマくらいしか、書くべきことを持ち合わせていないだけだ。だから、この文章に興味の湧かない場合はブラウザを閉じていただいて構わない。しかし少なくとも私は、このテーマを考えることに価値があると思っているし、読んでいただいた方にはそのことがわかってもらえると思う。寛容な心で、騙されたと思ってもう少しお付き合いいただけたら、幸いである。

 

 

アフリカ専攻というところにいると、アフリカについて考えざるを得ない。私はもう二年半もアフリカ専攻としてキャンパスに通っているので、「アフリカ」という言葉にすっかりなじんでしまった。入学前には年に一度くらいしか「アフリカ」という言葉に出くわさなかった気がするので、これは驚くべき事態である。私は今や一時間に一回は「アフリカ」といっている気がする。大学教育の成果である。

しかし、私の二年半をかくも表層的なものに帰してしまうのは、学費を賄ってくれている両親にいささか忍びない。私の二年半の真価は、少なくともそこにはない。ではどこにあるのか?一つの答えは、アフリカという「他者」に開かれる、という体験だと思う。つまり、他者だと思っていたアフリカに接近したことで、文字通り新たな世界が開けたばかりか、私という個人の中にも新たな相が見いだされたのである。

そしてそれは、アフリカの中の「奇妙な」人たちをめぐる学びにおいてであった。

 

 

文化人類学者エヴァンス・プリチャードの作品に、『アザンデ人の世界』という本がある。

スーダンに住むアザンデ人は、託宣(占い)・妖術・呪術という実践をしていた。こういった呪術の実践は、実は世界各地に点在しているのだが、ヨーロッパからの植民者たちは、これを「野蛮」で、「原始的」な実践だと思っていた。実際、「呪術」とか「うらない」とかいう言葉だけ見れば、なんとも前近代的で、不合理なものと響くだろう。しかし、これは単なる知的な蒙昧などではなかった。プリチャードは、彼らとともに暮らす中で、呪術という実践の中にながれる、確固とした「論理」を見出したのである。

アザンデ人は、村で不幸が起きると、「妖術」にその原因を帰す。妖術は、『アザンデ人の世界』の小題にもなっているのだが、「不運な出来事を説明する」概念、信仰である。例えば、歩いているときに切り株で足が傷ついたのなら、それは妖術である。しかし、不運な出来事がすべて妖術で説明されるわけではない。妖術が登場するのは、あくまでも当事者に非がないときである。すなわち、当事者がアザンデ人のしきたり通りに行動していて、かつ道徳的にも恥じることがない時である。それにも関わらず不運な出来事が起きた場合にのみ、妖術が登場する。

ひとたび妖術が認められると、妖術は託宣(占い)により告発される。託宣は、こすり板によるものや毒によるものがある。妖術が原因とおもわれる事象が発生すると、託宣により、妖術師(=妖術を仕掛けた人物)が特定される。妖術師が特定されると、妖術師のもとに代理人が派遣され、妖術師に妖術をやめるように伝える。妖術は、当事者が意識的に行うものではない。だから、妖術師が判明すると、彼・彼女に「あなたが妖術をかけていますよ」という知らせが届くわけである。それでも妖術が止まらないと思われる場合には、呪術師が、呪術 儀礼などを通じて人為的に行使される魔術をもって妖術に対抗する。

因みに、妖術が発生した際に、妖術師と疑われる(=託宣にかけられる)人物は、社会的に決定される。妖術を掛けられ託宣を実行する人物は、個人的な敵、すなわち彼・彼女に害意があると思われる人物を託宣にかける。また、社会的接触が少ない相手に対しては敵意を抱くことはないため、例えば平民が貴族を、あるいは子供が大人を託宣にかけることはまずない。このように、妖術は社会的な実践である。

この妖術の論理は、科学的な因果関係とは別の次元にある。アザンデ人も、足を怪我したのは切り株で切ったからだ、ということは(当然)分かっている。しかし、アザンデ人はなおも妖術をめぐる実践を行う。それはつまり、科学とは別の仕方で、事象を説明しようとしているのだ。

科学的な因果関係は、ある出来事の起きた理由を追いかける。例えば、腹が痛いのは胃腸の炎症のせいであり、胃腸の炎症は細菌によって引き起こされる、、、というわけである。しかし妖術は、科学的要因には説明できないような、事象の運命論的な原因を説明する。妖術が説明するのは、「なぜある出来事が起きるか」である。科学的な因果関係は、「どのように」事が起きるかを説明するが、「なぜか」は説明できない。妖術が説明するのは、ある出来事が、「なぜ不幸にもその人に起こらなければならなかったのか」ということである。

 

以上で述べたように、妖術はある一貫した論理を持っている。妖術は、決して、迷信的であいまいなだけの実践ではない。そこには論理があり、独自の因果関係があり、コスモロジーがある。表層を見ただけでは「奇妙なもの」である妖術・呪術は、実は「迷信」というよりは、独自の論理体系なのである。

そのうえ、この「論理」は、われわれに対し差し迫った問いを提示している。つまり、「科学は、真の意味でわれわれを救いうるのか?」ということである。科学には、われわれの運命を、生きる意味を、不幸の理由を、説明することができるのか?この文明を支え駆動する科学は、果たして手放しで寄りかかれるものなのか?これはシリアスな問いではないだろうか。蒙昧で不合理に映るこの実践は、それだけでは済まされないような含意を持っている。

 

 

一見「野蛮」で「蒙昧」な事柄への問いは、こうしてわれわれのもとに帰ってくる。

われわれは、理解できそうもない、ちょっとおかしなものを見ると、それを他者として、突き放して認識してしまう。まあそういう人たちもいるだろう、変な人もいたものだ、「しかし私には関係ない」、というふうに。しかしこのロジックは、差別と隣り合わせの、危うく暴力的な思考回路である。よそはよそ、と突き放すことは、時に成熟したふるまいかもしれないが、それは他者に対して閉ざされることである。「私」の理解できることのうちに閉じこもり、問いかけを放棄することである。

相手が人間である以上、ある不可解な行為には、「なぜ」と問うことができる。相手の側にたって、彼・彼女の論理を理解しようと、問いかけを始めることができる。そしてその問いを、思考を、自分のこととして受け止めることで、自分へと問いを折り返すことができる。他者に開かれ、他者を理解しようとする中で、いつしかその問いは自分へと反射する。他者とのコミュニケーションを通じて、「私」が問題になる。

 

 

哲学者エマニュエル・レヴィナスは、他者との媒介をなすものとして、「言語」をおいている。他者がいなければ、言語は生じ得ないのである。一人孤島で生きる人間に、果たして言語は必要だろうか。答えはNoである。われわれは、他者に開かれることで、言語を手にする。未知なるものへの眼差しと、そして自らへの問いとを手にすることができる。他者に開かれることで初めて言語が生まれ、コミュニケーションがはじまる。他者へと開かれることは、われわれにとって決定的な事態なのである。

 

アフリカというのは、なるほど他者である。われわれとは距離的に、なにより心理的に、隔たった何者かである。この日本という国では、アフリカを単なる「暗黒の大陸」と見做して「支援」するといういささか単純にすぎる議論でしか、アフリカという言葉を見かけない人もいるだろう。しかし、「暗黒な」アフリカ、という突き放した態度は、自閉を招くものでしかない。われわれは、他者に開かれることができる。なぜ「暗黒」なのか、誰が「暗黒」なのか、本当に「暗黒」なのかと問いかけ、アフリカに開かれることができる。その時初めて、われわれは真の意味で言葉を手に入れることができるだろう。こういった事柄に気づけたことこそが、弊学のいささか言語に偏重した教育がもたらした、最大の成果のように思う。

 

 

「アフリカという他者を考えよう」などという話は、コロナ禍真盛りのこの時期にするべきではないのかもしれない。しかし、コロナ禍において、文字通りの意味の分断が促進され、他者との距離が隔てられていく中にあって、このような話はむしろ一層価値を持つと、私は思う。というのは、他者は「アフリカ」である必要はないからだ。「東南アジア」でも、「中国」でも、「隣の部屋のだれか」でも特に問題はない(個人的にはアフリカにも興味を持ってほしいけれど)。

 

われわれは誰かを突き放す手前で、問いかけを、コミュニケーションを始めることができる。そしてそれは、他者を決めつけて突き放すことより、幾分生産的で、何より倫理的なふるまいだと私は思う。世界が閉塞感と不安感に包まれる中で、他者の手前で立ち止まって、人格と論理をもった誰かとして他者を眼差すこと。われわれは、コロナ禍だからこそ、他者を眼差す仕方を、問い直してみるべきではないか。


 

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