厳然と存在する、いじめを「する」側と「される」側。
今回は両者の立場に立って、無意識・無自覚の行為によって生まれる人間関係の軋轢や歪み ―― いじめについて考えていきます。
「あなたはいじめをしたことがありますか」
こう尋ねられたら、あなたは何と答えますか。
「絶対にしたことはない」と確信を持って答えられる人は案外少ないものです。もしそう思っているのなら、それはおそらくあなたが忘れているだけです。
殴る、蹴るといった行為は、相手が嫌がっていることが一目瞭然で、「悪いこと」をしているという自覚が芽生えるでしょう。周りの誰かが異常に気付くこともできるかもしれません。
しかし、「仲良しグループ」の中で日常的に行われている「イジり」の範疇にも分類されがちな行為はどうでしょうか。
例えば、「デコピン」や「つねる」または「追いかけ回す」行為などです。
相手がその行為を本当に心から受け入れているか、分かりますか。
その場の雰囲気に流され、空気を読み、表面だけ取り繕って笑っているのかもしれません。
分かりやすいまでの極端な暴力でなくても、不用意な接触を好まない人がいることを私たちは忘れがちです。
相手と心からの信頼を築けていないのなら、相手は自分の存在を軽んじられていると感じるかもしれません。
追いかけ回す行為が日常的に続いた結果ヒートアップして怪我をしたり、トラウマを感じて走ることに嫌悪感を覚えるようになったりした人が私の身近にいます。
言葉の暴力は、時に身体的な暴力より力を持ちます。
体の痛みは消えるかもしれませんが、心に負った傷はなかなか癒えません。
これも、面と向かっての悪口や暴言は分かりやすいですが、「陰口」や「ネットでの中傷」はどうでしょうか。
誰かを疎外して、同じ考えを持った人とコミュニティを形成し、そこで軽々しく発言をしてしまってはいないでしょうか。
悪口とまではいかなくとも、いじめの原因を生むような発言をして、「これは悪口じゃない。だって事実だもん」と言い訳をしていることが、私の周囲にも残念ながらよく見られます。
さらに悪質な例は、相手がその場にいるのに「いない」と見なして無視をしたり、無視をしながら相手に聴こえるように悪口を言ったりする、というものです。
今これを読んで、少しでも心に痛みを覚えた人は、きっと他人の痛みを想像できる人なのでしょう。しかし、画面の向こう側や、コミュニティの外側にいる人の心の痛みは遠く感じられてしまい、想像することが難しいことも多いのです。
「無意識のうちに誰かを傷つけていないか」
「他人の痛みを想像し、感じることができるか」
いったん踏みとどまり、他人の存在を意識していくことが必要なのかもしれません。
「あなたはいじめられたことがありますか」
こう尋ねられたらどうでしょう。
私は何度かあります。
中学生の頃は、部活の先輩にいじめやハラスメントを受けました。
日常的に自分の存在を否定されると、鏡を見たり、学校に行ったりすることが辛くなったり、心を開いて話したりできなくなります。
自分では「強くあろう」、「気にしないようにしよう」と思っていても、根本が解決せず、どんどん状況が悪化するので、自分でも驚くほどダメージを受けました。
ここで自問自答してみます。
「いじめられる原因や付け入る隙を、私自身が作ってしまっていたこともあったのではないか。」
「根本がなかなか解決しなかったのは、受け身になり過ぎて、相手と全く意思疎通できなかったからではないか。」
多くの場合、相手は理不尽にも思える理由でいじめてきます。ですが特殊な例を除き、いじめは人間関係の軋轢と歪みによって生じますから、何らかの起爆剤が存在するはずです。
後からですが、いじめのきっかけは「私がお礼を言わなかったこと」だと知りました。
正確には「お礼を言いそびれてしまった」のですが、その場はうやむやになって、相手にわだかまりが残ってしまいました。
これを知った時、早めに誤解を解けるよう、相手に積極的に働きかけなかったことを非常に後悔しました。
また、無自覚にいじめを引き寄せてしまった行為を反省しました。
もちろん理由があるからいじめが許されるなんてことはありえません。
ですが、早めに手を打たなければ自分が損をしてしまいます。
理不尽をされた時に耐えること、負けないことが必ずしも早期解決に繋がるとは限りません。
自分自身、辛い状況にある時にはなかなか気づけませんでした。
今これを読んでいる方々の中には、いじめに対して複雑な気持ちをお持ちの方もいるかもしれません。
私なりの思いではありますが、「いじめをする側も同じ人間であることを思い出すこと」「歩み寄ること」「自らを省みること」も現状を打開するのに有効に働く場合があると、自らの経験に基づいて皆さんにお伝えします。
実際、そう考えるようになってから、人と接することが楽になりました。
歩み寄ろうとして失敗しても大丈夫。
些細なことでも周りの見方が変わったり、関係が変わったりするきっかけにはなり得ます。
人間ですから、「好き」も「嫌い」も「苦手」もあって当然です。
全ての人と仲良くする必要はありません。
ただ、無意識・無自覚の行為によって人間関係が最悪の状態まで拗れないように…。
それは、いじめをする側も、される側にも言えることだということです。
「いじめはいけない」
よく耳にしますが、これはいじめをする側への呼びかけです。
しかし、一方だけへの働きかけではいじめはなくならないでしょう。
みんな同じ人間で、それぞれ必死に生きているのだということをふと思い出し、改めて、自分にも他人にも優しくありたいと強く思うのです。
もし何らかの意思表示をしたり、助けを求めたりすることに躊躇いや障害があるのなら、自分の身を置く世界を広げることに努力のベクトルを向けてみましょう。
他人に左右されない、自分だけの「何か」を心に秘める。
あなた自身と、あなたの価値を認めてくれる新たな友人は、あなたがこれから出会う輝く未来で待っているはずです。
2年生
東京大学 UNiTe VoYJ Youth UNHCR
アフリカ 国際法 禅に興味がある。
合唱 読書 書道 リラックマが好き。