記す鏡のきらめきを

いつかどこかの国の夕日
キセツノトピック
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――今日もまた真夜中迎えふと気づく昨日の気持ちのまま新年度
これは1年前、日付が変わって4月1日になったときにつくった短歌。どうせ今年も「昨日の気持ちのまま新年度」を迎えるのだろうとは思う。でも4月になれば何かが変わってしまう気がする。だから3月のうちに、この文章を書いておく。

文学を勉強している。詳しく言えば、スウェーデン語文学と翻訳を。学部を1週間と少し前に卒業したわけで、もちろん卒業論文も書いた。数え切れないほどたくさんの文学の授業も受けた。文学士という称号はありがたくもいただいたけれど、実感が湧かないというか、そんな称号をいただけるほど私は成長したのだろうかというのが正直な気持ちだ。きっと修士号をいただいても、いや博士号をいただいても、ずっと私は同じことを言い続けるのだろうなと思う。鏡で毎日自分を見ていると髪が伸びたこともよくわからないのと同じで、毎日少しずつ何かを吸収してもその実感は薄く、でもそれしか学びの手段はないのだと思う。

文学研究って何だろう。友達に聞かれたとき、少なくとも1年半くらい前までは、何するんだろうね、私もよくわかんないと返していた。答えるのが面倒だったとかではなくて、本当に文学研究って何するんだろうと思っていた。実験をするわけでもないし、計算をやり遂げればひとつの答えが出てくるわけでもない。ひたすら、あれこれ、読みながら考える。考えたことを言葉にする。書いているうちに思い出した本、教えてもらった本、出会ってしまった本を手に入れるために書店や図書館に走る。そしてまた読む。読んで、考えて、書く。そんなふうにしてレポートや論文を書く。やっぱりよくわからない。でもこのよくわからない感じを表現するのにぴったりな言葉を見つけたから、友達には最近こう答えている。連想ゲーム、かな。どこで終わりにするかは自分次第だけれど、ひとつのものを読んで似ていると思った本や関係のありそうな本をどんどんつないでいく。きれいにつなぐ。編み物にも似ているかもしれない。

翻訳が好きだ。なぜだかはわからない。中学のころ、洋楽ばかり聞いていたころ、インターネットにつながったパソコンを使わせてもらえるようになったから、歌詞をたくさん検索した。そのときに「およげ!対訳くん」というハイセンスな冗談がそのままタイトルになったようなサイトを見つけて、やたらと読んでいた。いまでも毎日1曲、正午になると訳詞が必ずアップされるこのサイト、書いている方は何者なんだろうと思う。そして気づいたら大学で小説の翻訳をする授業など受け始めていた。翻訳のことはパズルみたいだと思っている。そこにある言葉をできるだけ崩さずに、違う角度から見ても同じ作品として楽しめるように、ちまちまと言葉を組み替えていくのが楽しい。作家とは違うけれど、登場人物それぞれのキャラクターが自分のなかで立ち上がり、思い思いの身のこなしで動き、それぞれの声でしゃべるとき、自由に文章を書いている錯覚に陥る。あまり解釈を入れ込んで形を歪めてはいけないけれど、風景を語るシーンにいつか見た海のうねりを重ねて動かしてみたり、恋の思い出が書かれているシーンに、知らず知らずのうちに自分の恋愛論がほのかに香ったり。

翻訳好きが高じて、私の普段書く文章はちょっと翻訳調になってしまったらしい。人に言われた。けれど和歌をはじめ日本の古典文学作品が好きな私もたしかにここにいて、日本語ならではの主語のない文章や体言止めなどをすごく頻繁に繰り出す。アカデミックな論文ではそういうことをやってはいけませんと言われてしまうので、ここのところ少し気をつけてはいる。でもこのよくわからない感じに欧米言語の感覚と日本語の感覚がミックスされた自分の文章は、私は好きだ。だからどちらも保存しておいて、二重人格みたいに使い分けられたらいいのになと思っている。

好きな対象を好きでいつづけることはすごく難しい。いつかは飽きてしまう。いつかは心が離れてしう。あまりにも長く向き合い続けたせいで、何か本当はそこに存在しないエッセンスのようなものが癖になってしまって、そこから何かのはずみで放り出されたときに幻滅することもある。好きだった気持ちの反動で、むしろ嫌いになってしまうこともあるかもしれない。些細なもの一つひとつに関しては、間違いなくそうだ。音楽の趣味だっていままでにずいぶん変わってきた。けれど、もっと大きなカテゴリーで捉えれば、調和とか、詩とか、透明とか、そういうものがずっと好きなのだろうと、いやに自己分析を繰り返すようになったいま、そう思っている。言葉を調和させ、詩性を汲み取り、限りなく透明に近いレイヤーに作家の言葉を写し取る、そんな翻訳のことはいつまでも好きでいられるかもしれない。いまはそう信じていたい。

はじめのところに戻ると、成長なんてやっぱり、特に自分自身には、わからない。でも本を読んだとき、読む前と後では少しだけ考え方が変わる。些末なところでいえば、語り手の理屈と口調を頭のなかで真似しちゃう、みたいな。変わるところまでいかなくても、世界にかけるフィルターの種類が1枚くらいは増え、ストックとして引き出しにしまい込まれる。文学なんて、すぐには役に立たないかもしれない。それどころか、コミュニケーションにスパイスをきかせすぎて人間関係がどうかするかもしれない。でも、長い目で見れば人生を濃く、まろやかに、味わい深いものにしてくれるような気がする。なんとなく、ではあるけれど。そんな過程を学びと呼ばせてもらえる私は、なんて幸せなんだろうと思う。

卒業式の朝、着付けのために早起きをして、着物に合う真っ赤な口紅をつけて電車に乗り、もう何年も見ていなかった日の出を見た。早春の朝、大学の池は澄み渡っていて、鏡のようだった。その日は帰り道に日が沈むのも見て、ああ新しい始まりなんだろうなと、ぼんやり感じた。どういうタイミングになるかわからない修士の卒業式の日、そしてうまくいけば博士の卒業式の日、私は何を見るのだろう。何を感じるのだろう。ここに書いたすべてを、笑い飛ばすかもしれない。

それでもいい。嘘のない言葉たちだから。笑い飛ばせるほどに変わったのなら、その過程を愛せばいいから。
日付が変わって2時間。年度末がやってくる足音が聞こえる。




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