地味でなおも輝く

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銅鑼湾駅から軒尼詩道を西へ抜けて、香港公園のところで紅棉路に折れて坂道をしばらく歩くとピークトラムの駅がある。トラムに乗り込み、最大27度の急勾配を8分ほど走ると、百万ドルの夜景として知られる香港のオフィス街を眼下に望むヴィクトリア・ピークへとたどり着くこととなる。

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さて、これを見なければ香港に来たとは言えない、と言われるほどのこのヴィクトリア・ピークからの夜景であるが、実はそれほど派手なものではない。高所の有利はあるものの、見えるのはオフィスビルの窓から見える黄色単色の明かりばかりであり、豪華絢爛さという意味では、極彩色の広告が対岸に向けて暴れまわる、海に面した反対側の景色には及ぶべくもない。距離的な意味においても、フェリーから間近に見える反対側ほどの迫力はない。それは九龍地区などに代表される繁体字まみれ、原色ネオンギラギラの香港の街角の雰囲気とは一線を画した、ある種静謐な風景なのである。
ヴィクトリア・ピークからの夜景を一目見ようと一念発起して、同宿者との楽しい会話を切り上げてゲストハウスを出発したのは夜の9時頃であった。携帯がない中(3日前に雲南省の麗江で盗まれてしまったのであった)、『地球の歩き方』の大雑把な地図のみを頼りに歩いたので3度ほど道を間違え、汗だくになりながら這う這うの体でなんとかトラムの駅にたどり着いた。山頂に着いたのは夜の10時ごろであり、そのころには山頂の人影はすでにまばらとなっていた。ゲストハウスにいたドイツ人に教えてもらった通りに山頂の展望台を左に回り、トイレ脇の道を降りると左側一面にオフィス街を望む通りに出た。誰もいないその通りでしばらくシミジミとした感動を味わったのであった。
前述の通り、見える景色自体は決して派手なものではない。それではなぜこの景色が深い感動を与えてくれるのだろうか。眺めながら考えるに、それは一つには眼前の景色が担う役割にあるのではないかと思い当たった。
ヴィクトリア・ピークから見えるのは、尖沙咀やら九龍やらに向けて海峡を越えて派手な広告を打っているビル群の、ちょうど反対側の面である。すなわち、海側の広告面をそれらのビルの表舞台であるとすれば、それらが光り輝くのを支えているのはとりもなおさず山頂から見える、裏側の地味なオフィスの光であるということである。表は勇猛果敢に光り輝き、裏はそれを質実剛健に支える。いずれの面がかけてもこの100万ドルの夜景は成り立たなくなってしまう。私の心を打ったのは、表を支えるために地味ながらも懸命に輝く裏側の光の黄金色であったのだ。

思えば社会というものもこのようではないだろうか。世の中には大衆の羨望の的となるような非常に華やかな仕事がある一方で、普段の生活の中ではあまり人に顧みられることのない、大切だが地味な仕事もある。しかしその実態としてはいずれも社会的に重要な位置を占め、相互に非常に依存しており、どちらかが存在すればもう片方はなくてもいいということにはならないであろう。
私が現在勤めている職場で日ごろ行う仕事のほとんどは実に地味なものである。しかし、職場全体としての動きそれ自体は社会に大きな影響を与えうる。私もヴィクトリア・ピークから見える夜景を構成する光の一粒のように、地味だけれどもなおも猛烈に輝く存在でありたいと思った。

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