「なぜ生きるのか」という問いに対して思う3つのこと

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今年度に入り、芸能人が自ら命を断つなどの痛ましい事件が続きました。そこまでではなくても、コロナ禍で家で1人で過ごしているとふと、「なぜ生きるのか」のような容易には答えの出ない問いに考えこんでしまう人もいると思います。この問いに対して私が思うことを3つ書きます。

 

1つ目は「なぜ生きるのか」という問いは考える必要がないということです。私が危惧しているのは、「なぜ生きるのか」の答えが出ないことが生きる意味の否定につながることです。しかし、主観的な自己がどうであれ、少なくとも自分の身体は自分を生かそうと一生懸命動いていて現に今生きているわけですから、それでいいのではないでしょうか。それに、この類の問いは家で静かに考えることで答えが出るものでもありません。「なぜ生きるのか」の答えが出なくて変に悩むよりは、考えない方がよっぽどいいと思います。

 

2つ目はある方がおっしゃっていたことなのですが、「なぜ生きるのか」よりも「どう生きるのか」という問いの方が答えやすいということです。どう生きるのかという問いは自分の人生に対する姿勢を聞いていて、これは自分でコントロールできる部分なので考える価値があると思います。「幸せに生きる」「善く生きる」「主体的に生きる」など様々な答えが考えられるでしょう。

 

3つ目は、「なぜ生きるのか」という問いにあえて現代人に普遍的な解を1つ与えると、「安住の地を得るため」ではないかと思います。世襲の時代は生まれつき決められた職業が自分のアイデンティティとなり、それゆえ自分はその村で唯一無二の存在だったわけですが、現代はそのような縛りから解放された一方で、自分の存在価値が確定しない状態で過ごす期間が長いように思います。ですから、家庭、仕事、コミュニティで自分が存在価値を感じられる居場所を得ることは、生きる意味に対する1つの回答なのではないかと思います。

 

そうは言っても、このような普遍的で抽象的な答えは個人にとってはあまり役に立ちません。生きる意味に対する明確な回答がないと耐えられないというのなら、全人生で一貫した1つの答えがあるというよりかは人生の段階ごとに具体的な回答(ex. 競技をする、大学に受かる、仕事で社会に貢献する、家族を守るなど)を想定するのがいいかと思います。ただ、はじめにも述べたようにあえて考える必要のある問いではありませんし、答えが見つからずに苦しくなってしまっては本末転倒であると思います。

 


 

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