「できること」と「できないこと」と「できるけど疲れること」

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2019年末にお笑い芸人のチュートリアル徳井さんが脱税疑惑で話題になったことがありました。その際に彼のプライベートにおけるだらしなさやルーズさも明るみにされ、SNS上では「ADHDではないか?」などと騒がれました。ADHD(注意欠陥/多動性障害)とは注意欠陥や落ち着きのなさ、衝動性などが特徴の発達障がいです。その一方で「障がいなんて大げさな」「ただ怠慢なだけ」といった声もありちょっとした議論になっていました。この議論を見た私は少しモヤモヤした気持ちになり、この記事を書くに至りました。自分の体験も含めてダラダラと書きますがどうかお付き合いください。

 

私にとって障がいは幼いころから比較的身近な存在でした。というのも家の近くに盲学校という、視覚に障がいがある人のための学校があったからです。そのため私は幼くとも点字ブロックや音が鳴る信号機の意味を理解していましたし、親からも目の見えにくい人に会ったらどうすべきかを教えられていました。さらに私たちの小学校には特別支援学級があり、障がいがある生徒もそうでない生徒と同じ校舎で生活していました。

しかしその一方で私は障がいのある人のことをどこか別世界の存在とも感じていた部分もありました。障がいのある人は盲学校や特別支援学級などの「特別な環境」で生活していたからです。精神や身体に障がいがある人は「障がい者」と呼ばれ、サポートを受けるために特別な環境で生活する。一方で障がいがない人はサポートを受けることなく「普通に」社会で生活する。そんな考え方が次第に自分の中で当たり前になっていきました。

 

そんな私の障がいに対する認識が少しずつ変わり始めたのは高校を卒業してからでした。大学受験に失敗した私は県外の予備校で1年間の浪人生活をすることになったのですが、その予備校で私はA君という青年と知り合いました。A君は話し方が特徴的で、滑らかに話そうとしても「こ、こ、こ、こんにちは」といったぐあいに言葉が詰まってしまうことが多くありました。さらに彼と並んで昼食を食べたり模試後の自己採点を一緒にしたりする仲になると、彼が国語で小説の登場人物の心情がうまく読み取れなかったり、毎日全教科の教科書を予備校に持参していたりしていることに気が付きました。

後日私がこれらについて調べたところA君の話し方は吃音(きつおん)と呼ばれる発話に関する障がいのひとつだということがわかりました。さらに他人の心情が読み取りにくいのはASD(自閉症スペクトラム、アスペルガー症候群とも)の特徴のひとつで、物事をうまく整理整頓できないのはADHDの特徴のひとつだということもわかりました。このことをA君に話してみると彼もそれらの障がいのことを自覚していたようで、逆に数字の記憶が得意などのポジティブな特徴も教えてくれました。

その一方でA君は今まで私が見てきた障がい者のある人たちとは違いました。彼は「特別な環境」で生活していたわけではなく、皆と同じ教室で授業を受け皆と同じように大学合格を目指して勉強していました。さらに彼の周りの人間も、他の友達にそうするように彼に接しており、彼は教室内で特別な存在ではありませんでした。

この状況は当時の私にとって奇妙なものでした。というのも、障がいというのは「あるorなし」の二元論で語られるものであり、もし障がいがあるのならば何かサポートを受けながら健常者とは別の環境で生活するものだと考えていたからです。しかしA君はその反例で、一般に障がいと言われる特徴をいくつか持ちながらも、「特別な環境」で生活していたわけではありませんでした。

私はこの経験から、障がいは思っているより白黒はっきりしたものではなくグレーゾーンのようなものも容易に存在しうるものではないかと考えるようになりました。さらに、今まで障がいとは無関係だと思っていた自分でもグレーゾーンに入っていることがあるかもしれないとも考え始めるようになったのです。

 

そこでよくよく自分の性格を考えてみると、私はアスペルガー症候群にみられる特徴を多く持っている気がします。アスペルガー症候群とはASDの一種で対人関係の不得意やパターン化した興味・活動などがその特徴として挙げられます。私はコミュニケーションは苦手ではないのですが自分の領域に踏み込んでこられることに抵抗が強く、友達を作るのに時間がかかるタイプです。さらにこだわりも強く一日のルーティーンが少しでも乱れてしまうとイライラします。しかし逆にアスペルガー症候群の特徴に当てはまらないものもあります。例えば運動が不得意や不器用などの特徴は私に当てはまりません。

症状に合致するものとそうでないものが両方あると「自分は障がいなのかそうでないのかどっちだろう」と悩む人もいるかもしれませんが私はそうはなりません。なぜなら私はこれまでの経験から障がいを白黒はっきりしたものではなくグラデーションと捉えているからです。「0と1の間だったら自分は0.8くらいかなぁ」くらいに考えています。

 

このように障がいを連続的にグラデーションで捉える考え方は私だけがしているわけでなく広く取り入れられているものです。特にグラデーションとして強く表れやすい発達障がいに関してはADHDとASDにLD(学習障がい)を加えて自己分析をしてみる方法もあります。私とA君はおそらくこんな感じのグラフになるはずです。

繰り返しになりますがこのグラフを見て「数値が一定の値を超えているから自分はこの障がいだ」などと考えるのはナンセンスだと思っています。むしろグラフを見て自分の性格とよく向き合い、どうやって自分と付き合っていくか、どのように他人に接したらいいのかを考えるほうが有意義だと思います。

 

最後になりますが、このグラデーションの考え方は障がいだけでなくジェンダーやセクシュアリティの分野でも同様の文脈の中で語られることが多く、私は多様性社会へのヒントだと考えています。

障がいを個人を不自由にする何かではなく、多様な社会における個性のひとつと考える。これは決して簡単なことではないかもしれません。しかし私にはその成功例だと思っている事例があります。それは視力です。私を含めて現代人は眼鏡やコンタクトレンズなどの視力矯正器具をつけている人が多く、中にはそのような器具がないと日常生活がままならないという人もいるでしょう。これは私たちが考える「障がい」のイメージに近い気がしますが、一方で眼鏡やコンタクトレンズをしている人を障がい者だとみなす人はほとんどいないはずです。補聴器をつけている人からは聴覚障がいを連想するのに、眼鏡やコンタクトレンズはむしろファッションアイテムとしても扱われます。

 

2021年には東京でパラリンピックも開催されます(ほんまか?)。この機会にもう少し障がい、そして多様性について考えてみましょう。

 


 

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