自分なりの「正しさ」を探して

行き詰まった時や疲れた時によく訪れる大学キャンパス内の池
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2022年3月、私は4年間通った大学を卒業しました。

大学生活はとても充実していました。元々楽天的な性格の私は、基本的に楽しかったことだけを覚えていて、悩み苦しみながら選択した経緯の多くを忘れがちです。しかし、悩みや葛藤も確かにありました。楽しかったことばかりではありませんし、100%の確信を持って選択してきたことばかりではありません。そのため、今後道に迷った時、自分の選択が信じられなくなった時に戻ってこられるように、大学生活で感じたことを記事にして書き留めておこうと思います。

 

多くの人にとってそうかもしれませんが、自分にとっての大学4年間は、否応なく自分の進路と向き合うことが求められた時間でした。これまで漠然と思い描いてきた「夢」を現実にしていくために、自分は何をするべきなのかをずっと考えていました。

昔から自分は、わりとまっすぐで素直な性格だったのだと思います。
2歳半の時にジャイアントパンダを見て一目惚れしてから、目指す夢はずっと決まっていて、「自分の夢は何なのだろう」なんて悩んだことは一度もありません。

 「僕の夢は、国際機関に勤めて、絶滅の危機にある動物たちや自然環境を守ることです!」

そう胸を張って答えていた自分は、いま自分が「するべき」と思われること、つまり勉強やクラブ活動、スポーツなどを一生懸命にすることが、夢への道だと思っていました。目指すべきものは決まっている。いましなくてはいけないことも決まっている。だからあとは、自分ができるかどうかだけ。勉強や部活といった、みんなと同じ尺度の中で努力をすることは、単純でわかりやすく疑問を抱くことはほとんどありませんでした。「うまくできない自分」に対して悩むことはあったけれど、目指すべき目標、やるべきことが決まっている環境はある意味心地よく感じていました。その目標をまっすぐに目指せばよかったから。「できない自分」さえ克服すればそれでよかったから。夢があったから、目標があったからできたことはたくさんあります。いままで一生懸命頑張ってきたことそれ自体は単純にすごく誇らしいです。たとえそれが環境のおかげだったとしても、自分の努力だけではなかったとしても。

 

けれど、いつからでしょう。夢を語ることに怖さを感じるようになりました。思い描く夢に高揚感を感じるとともに、ちくりと胸が痛むようになりました。

敏感な同級生は中学・高校の時からすでに気づいていたのかもしれません。けれど、自分は大学生になって初めて、この世界はもっと複雑なのだと知りました。当然のことですが、画一的な尺度だけではこの多様で複雑な世界を捉えることはできません。人々の目指すものはもっと多様だし、「正しさ」も人によって様々です。ですから当然、一人一人がするべきことも異なります。社会のために力を尽くしたいと思う人がいれば、愛する人のために一生懸命日々を過ごしている人もいる。自分の趣味の時間や快適性を求めて仕事を選ぶ人もいる。どの選択肢も正しいけれど、どの選択肢も絶対的な「正しさ」にはならない。

このことに気づいた時、私は自分が何をしたいのか、目指す夢のために何をするべきなのかわからなくなりました。そもそも自分の夢を追い続けることが幸せなのかと悩んだこともありました。中高生時代のように勉強や部活といった画一的で共有された尺度は存在しません。それぞれがするべきことを考え、選択することが求められます。自分にとっての「正しさ」を見失いながら、時間だけが過ぎていくことに焦っている日々が続きました。

「俺なにやってんだろう?」「俺がするべきなのはこれなのか?」そんな自問自答の日々の中、前に進んでいるという実感も持てないまま、身体だけをすり減らしていました。お酒で現実逃避したことも一度や二度ではありません。それでも全てを投げ出すことはできなくて、中途半端にいろいろなコミュニティに顔を出しては「これでいいのか?」と思い悩んでいました。全てを一生懸命にやろうとしながらも、思い描いた通りにならずにさらに落ち込むという悪循環でした。

さらにつらかったのは、自分のしていることや目指す夢が他人から応援されるとは限らないと気づいたことでした。

自分の「正しさ」は他の人にとっても「正しい」とは限りません。動物や自然を大切にすることは、間違ってはいないけれども絶対的な「正しさ」にはなり得ません。貧困に苦しむ人たちにとっては、自然を守ることよりも明日の生活の方が大事かもしれません。物質的、経済的に豊かになることを「正しさ」だと信じる人にとって、環境保全は足枷にしか見えないかもしれません。時間やお金のかかる夢を追い続けられることは、それだけで非常に恵まれているのだと思います。

前に進めていない自分。叶うかわからない夢。投げ出すこともできない思い。それらの間で板挟みになっていたから、夢に怖さや痛みを感じるようになったのだと思います。

 

正直、今でもまだ前に進めているのかわからなくなる時がありますし、夢への怖さや痛みがなくなったわけではありません。けれど、自分にとっての「正しさ」になりそうな種を見つけることができました。それが、「関係価値」という概念です。

自然はなぜ重要なのか?という問いに対して、あなたならどう答えるでしょうか。

食料や水、観光資源など、人が生きていくための恵みを与えてくれるから。もしくは、人も自然の一部だし、人とは関係なく自然は重要で守らなければいけない、といった答えを出す人がいるかもしれません。自然は人の役に立つから重要だとする前者を「有用価値」、自然の持つ本来的な価値をとらえる後者を「固有価値」と呼びます。

ですが、この2つの価値枠組みでは捉えきれない自然の価値もあります。例えば、ふるさとの自然や小さい頃から訪れている公園の自然は、役に立つかはわからないけれど、愛着があり自分にとっては重要です。また、農業や家庭菜園をすることは、経済的な利益だけではなく達成感や充実感をもたらしてくれます。自然があることで地域の人々とのつながりや一体感が生まれるという側面もあります。このように、人々と自然の関係性の中に見出される自然の社会・心理的な恵みを「関係価値」と呼びます。

私はこの「関係価値」の考え方が非常に腑に落ちました。人と自然の関係の中に価値を見出し、人間の幸福感も自然の保全も両立する考え方。周辺化されてきた地域住民の意見を掬い上げるポテンシャルもある。この考えをもっと知りたい。もっと現場に応用していきたい。自分なりの「正しさ」をこの概念に見出したい。そう思って、日々研究に励んでいます。

 

先日、大学教授の叔父にこんなことを言われました。
『博士課程を修了すると、Ph.D.と名乗ることができますね。十分な研究を終えて、自分なりのPhilosophy(哲学)を持っている証です。Phの部分、つまりそれぞれの哲学が重要だということです』

大学4年間は、自分なりの「正しさ」やその先にある哲学の種を見つけるための時間でした。これまでの画一的な尺度が失われ、複雑で多様な世界と向き合うための時間でした。これから先、迷うこともあると思いますし、逃げ出したくなることもあると思います。けれど、自分なりの「正しさ」を見つけて、哲学を構築して、少しずつでも進んでいければと思います。

これから大学に進学する人。自分と同じように進路に悩んでいる人。世界の複雑さに直面して心が疲れてしまった人。そんな方々が、この文章を読んで少しでも何か感じることがあれば嬉しいです。


 

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