10年前の記憶

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2021年、東日本大震災から10年が経ちました。

あの日まだ5歳だった私は、義務教育最後の一年を終えようとしています。震災のことを私自身が忘れないように、そして少しでも多くの皆さんに知って頂けるように、私の体験をお伝えしようと思います。

私の記憶が全て正しいという確信は正直持てませんが、覚えていることをありのままに書いてみます。

 

《地震発生》

私は当時幼稚園の年中さんで、2歳の弟と両親と、仙台市内のマンションに住んでいました。

次の日は1つ上の学年の卒園式で、いつもより少し早く、通園バスで家に帰ってきていました。毎週金曜日は近所のショッピングモールの中にある英会話教室に通っていたので、母と弟と、車に乗り込みました。「レッスンまで時間あるから、ちょっと遠回りでドライブしようか」母がそう言い、ワクワクしながら出発しました。

 

地震が起きたのは、家を出て10分くらい経ったときでした。

揺れ始めた瞬間のことは覚えていませんが、とにかく右に左に、長い時間揺れていました。

歩道では下校中の小学生の男の子が、街路樹にしがみついていました。

コンビニの自動ドアが粉々に割れ、数人の女子高生と若い店員さんが駐車場にへたり込んでいました。

車で流れていたラジオではアナウンサーが「車のハザードランプをつけてください。ハザードランプをつけて停車してください」と繰り返していました。

後から聞いた話ですが、私が行く予定だったショッピングモールは、天井が落下してきて、それに巻き込まれてしまったお客さんもいたそうです。

 

私達は、揺れがおさまるまで路肩に停まっていましたが、すぐに家へ引き返しました。

 

 

《地震の後》

私が住んでいた地域は、幸い津波や土砂崩れなどの被害はありませんでしたが、地震によるライフラインの寸断や建物の倒壊は大きかった記憶があります。

マンションのエントランスに入ると、壁のタイルがあちこちに散乱し、大きな亀裂もありました。

エントランスで他の住民と一緒にいると、急に雪が降ってきました。3月の仙台はほとんど雪がありません。幼いながらに、「地震が来ると雪が降るのかな」と思っていました。

いつもは夜に帰ってくる父も戻り、両親は自宅へ向かいました。「危ないから車で待っていてね」と言われ、私と弟は車で待っていました。私は、「ビデオレンタルショップで借りたDVD割れていないかな」などとぼうっと考えていました。

戻ってきた両親からは、数メートル移動している家具があって、水漏れしたのかいくつかの部屋が水浸しだったと言われました。

 

その日は、車で夜を明かしました。停電で、明かりは車内灯しかありませんでした。これまでの人生で一番怖い夜だったなと、今振り返っても思います。

 

《避難所での生活》

3月12、13、14日は、避難所となっていた市民センターの体育館で過ごしました。中には50人ほどがいて、ダンボールの上に座って、備蓄されていた薄めの毛布をかけました。大きめの余震が数時間に1回のペースで起き、その度に天井から下がっている電灯が落ちてきそうで怖かったのを覚えています。

 

午前中は缶詰で空腹をしのぎましたが、12日の夕方には自衛隊が外で炊き出しをしてくださり、温かいものを食べることができました。しかし14日には食料の支援がなくなり、周りも残念そうにしていました。

 

夜は広い体育館に数本の懐中電灯が光っているという状況で、とにかく暗かったです。

 

《地震発生から数日後》

14日の夜、私は3日ぶりに自宅に行きました。石油ストーブの上で長い時間をかけてお湯を沸かし、カップ麺を食べました。

この日は秋田から親戚が迎えに来てくれて、私達は高速道路で秋田へ向かいました。走行中、暗闇に本当にきれいな満月が見えて、いつも以上に感動したのを覚えています。

秋田の祖父母の家に着いたのは日付が変わる直前でした。

 

《宮城に戻ってくるまで》

3月14日から6月くらいまで、秋田に避難していました。

秋田でも、テレビアニメを見ているときに緊急地震速報のテロップが流れたり、お散歩の途中で地割れを見つけたりしました。

 

幼稚園は4月から再開していましたが、ずっとお休みしていました。

宮城に帰ってきて幼稚園にあいさつに行くと、3月までクラス担任だった先生が出迎えてくれました。そのときに、震災後初めて「早く友達や先生に会いたいな」と思いました。想像以上に自分のことだけで精一杯だったのだと実感しました。

私は新しいクラスの中で一番最後に幼稚園に戻りました。

 

《生活が落ち着いて》

宮城に戻ったころには、私の周りでは生活が安定し始めていました。それでも、公園にがれきの山が残っていたり、建物の修復が完全ではなかったりと、震災の爪痕はたくさん残っていました。

私のマンションでも、ベランダの天井が落ちたり、前述したように壁が壊れていたりして、大規模な工事が2年ほど続きました。工事の内容によって、外に洗濯物を干せない日があり、毎日掲示板で確認しました。仕方のないことですが、工事で出たほこりがベランダに落ちてきたりもしました。

 

《その後~現在》

仙台市内の小中学生が作った約8万羽の折り鶴。写真は震災から5か月後の仙台七夕まつりの時に撮影。私も小学校の6年間参加しました。

 

幼稚園を卒園して、無事小学校に入学しました。その頃には震災の恐怖はかなり薄れていたように思います。学校では、「希望の道」という仙台市の復興ソング(※)を歌ったり、七夕祭りに向けて折り鶴を折ったりしましたが、あくまで数多くの行事の一つとして、なんとなく参加していました。

しかし中学生になって、宮城県内で被害の大きかった地域を訪れる機会があって、意識が変わりました。まだがれきの撤去が完全でない場所や、過疎化との二重苦に悩まされている地域もあり、改めて衝撃を受けました。

これを機に、学校で募金活動をしたり、地元のボランティア活動に参加したりと、積極的に震災復興に関わるようになりました。震災によって今も不安や悩みを抱えている方を、1人でも多く応援したい。そんな気持ちで活動しています。

 

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

私より被害が小さかったという方も、もっと大変だったという方もいらっしゃると思いますが、「こんな人もいたのか」と知っていただければ嬉しいです。

 

10年経ったからといって、震災復興に一区切りがつく訳では決してないし、未来に伝えていかなければいけない。

このことを心に留めておきたいと、強く思います。

 

 

※)http://www.sendai-c.ed.jp/~soudanka/H25/project/song/index.html


 

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