夢嫌い

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私は、将来の夢を聞かれるのが嫌いだ。

 

小学校の最初のほうまでは、お花屋さんだとかケーキ屋さんだとか、まっすぐに、普通に答えられていたのではないかと思う。

 

何歳からかは覚えていないが、そのうち、「子どもはキラキラした目で純粋に夢を見ていなければならない」と言われているような気がするようになった。

 

それからしばらくして、大人にはもう夢がないから、子どもたちの夢を、手の届かないショーケースの中の宝石みたいに飾って眺めて、楽しんでいるのではないかと思うようになった。

 

10代半ばのいつ頃かになると、子どもたちに夢を見させてあげられるような世の中を自分たちは保てているのだ、まだ大丈夫だと、大人が安心するために聞いている側面もあるのではないかと思うようになった。

 

新学期の自己紹介、学活や道徳の時間、2分の1成人式、卒業式、とにかく様々なときに出くわす「将来の夢」の記入欄を、どうにかこうにか埋めていた。はいはい、とりあえず大人を満足させとけばいいんでしょ。文句は言わせませんから。根っこから100%捻くれていたわけではなく、純粋さ・素直さも確かに持ち合わせていたはずだが、何と書いたかはもう覚えていない。

 

私は、将来の夢を聞かれるのが嫌いだった。

 

 

大学3年の春から1年余りの間、就活で、たくさんの社会人にお会いした。

もちろん各社ともスター社員を起用しているのだろうが、それを差し引いても、大人に夢がないわけでは決してなかった。ただ、「将来なりたい社会人像」の欄には、「御社」の方針と自分の経験がうまく合うような理屈を探して、嘘ではないけれど真実でもない綺麗な言葉を書き込んだ。そういうところは変わらないにせよ、自分自身が大きくなるにつれ徐々に揺らいでいた、「柵に囚われた自分たちのために、代わりに子どもに夢を見る」という大人像が、ここに来て、根拠をもって本格的に書き換えられつつある。

 

 

未来への漠然とした希望はあっていい。でないと、気が塞いでしまうから。

目標はあっていい。そのほうが、今を浪費しなくて済むから。

 

でも、じゃあ、ショーライノユメってなんだ? なんでこんなに聞かれるんだ?

 

 

人間は原則として、ある程度の年齢にならないと、抽象的なことや複雑なことは考えられないそうだ。せいぜい今日の夜ごはんや今度の遠足を楽しみにするくらいの時間軸しか普段持てない、小さな子どもに対して、遠いけれど(死ななければ)確かにその先にある未来を認識させるという効果はあったのかもしれない。

 

また、ふわっとした将来の夢を、なるべき目標に変えて本当に達成してしまう人たちも、一握りながら実在する。

 

 

かねてより感じていた「将来の夢」の気味悪さが、間違っているとは思わない。

ただ、それがすべてであるとも、最近は思えなくなっている。

 

私たちが子どもに将来の夢を聞くとき、そこには純粋な期待も、大人の汚さも、成長を促す一定の役割も、意識的であれ無意識的であれ存在すると思うのだ。

 

 

10年くらい前の私へ。

私は今も、相変わらず元気にモブキャラやってるよ。私自身やとても親しいごく一部の人以外にとって私の代わりはいくらでもいるはずだ(※)とか、そんなことはやっぱり信念として持ってるけど、どうせ繋ぎ目のひとつなら良いものを繋ぎたいな、くらいには思えてるよ。

宇宙飛行士にもサッカー選手にもピアニストにも別にならなくていい。でもたぶん、大人だってそう捨てたもんじゃないと思うから、そこは安心して信じてやってほしいな。

 

まあ、適当に答えて事無きを得るか、その疑念を試しにそのまま(できれば教育的信条でガチガチに固まっていない、生身で向き合ってくれる人を選んで)大人にぶつけてみるか、みたいなところはあなたに任せるけど。

 

将来の夢、たとえ嫌いでも、拒絶はしないでいいんじゃないかと思う。

 

 

 

※相手に対しては思うべきでもないし思いたくもないので、ダブル・スタンダードを積極的に採用している。どうかご安心を。


 

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