論理と感情

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ひとつの部屋に、夢や希望はもちろん、世の中への失望や不条理さへの気づきを抱えはじめた若者が何人かで集まると、必ずといっていいほど、いろんな会話が堰を切ったように始まります。

 

                                           

先日、私の留学先であるスウェーデンに、大学入学前からの友人、そしてその友達の計5人が訪れてくれました。

そこで彼らの宿泊先に、私が留学先で出会った日本人の友達を招待して、ちょっとした日本人会を開催することにしました。

 

 

 

「農業って、日本に必要なのかな。」

 

 

この日、友達のうち一人がこう言ったのは、畑を耕して作物を作ることをどうでも良いと思っているとか、無知であるがゆえに失言をしてしまったとかではありませんでした。

 

彼は自身の専攻である農業経済を勉強すればするほど、日本の特徴である零細農業を営んでいくことは経済的には非効率的であるし、彼らが生計を成り立たせるためには、農業をやめて他で就業した方がよっぽど効率的であることがわかるらしいのです。極論、日本はもっと得意な産業にシフトして、他の国からの輸入に全振りすればいい。

 

 

もちろん、彼が心からそう思っているわけではないことは、明らかでした。

彼の心には、いつだって農村の穏やかな風景が浮かぶと言っていたし、彼が農業経済を学び始めたのも、他でもない「その景色が好き」「日本の農業を守りたい」という気持ちがあるからなのだということを、私は知っています。

 

 

「好きなら好きで、それ以上に理由なんているのかな。私は直感で動くタイプだよ。」

 

その場にいたもう一人の友達は、そうつぶやきました。

 

 

農業経済を学ぶ彼は、でも、それでも、そのエゴだけじゃ守れないから、と言い、苦悩を見せました。

政策を作る政府の立場になってみれば、論理で説明できないことでは、国民を納得させ、国を動かすことはできないでしょうって。

 

だから来年一年間、自ら休学して農村に住み、農業を営むひとたちがどんな論理や感情で日々を紡いでいるのか、まずはそれを説明できるようにするそうです。

 

 

 

 

論理と感情。

 

 

 

これらはきっと、綺麗に分かれるものではないでしょう。

「好き」だからこそ、その気持ち、つまり感情を説明して、他人にわかってもらいたくなる。逆に、たとえば人間関係なんかは、家族、彼氏彼女、友達、いろんな呼称がありますが、そういう論理だけではうまくいかないし、肩書きに感情が伴って初めて成り立つものなのではないでしょうか。

 

 

ここまで考えて、私の大学生になってからの人生観は、論理と感情のせめぎあいのような感じだったかもしれない、と思いました。ちょっと大げさかもしれませんが。

 

自分の存在や選択を必死に正当化しようとして、理論で武装して、自分に、周りに、説明する。自分で納得して、周りにも理解され、時に賞賛されて、次のステップへと駒をすすめる。

 

 

こんな理屈でいっぱいの頭の中に埋めつくされ、すっかり忘れていたのですが、最近、私の好きな瞬間ってたくさんあったのだ、と気づく機会が多くありました。

 

 

思い出せば、ワクワクとも、ドキドキとも違う、高揚感を得られるひとときは、いつも無意識で、突然あらわれるものでした。

 

 

この間、古くから個人で営業しているような映画館でショートフィルムを見たとき。そういえば、中学生高校生の頃は、ひとりで映画を見て、現実とはちょっと違う世界に潜り込んでみるのが、なぜかすごく好きだったのだっけ。

 

 

お皿と食材の色の組み合わせ、配分、かたちのすべてが計算されているのではないかと思うくらい完璧で、目を引き、食べることがもったいないくらいの料理が、目の前のテーブルに運ばれてきたとき。

 

 

ロックやハウスミュージック、とにかく古くてレトロな音楽がどこからともなく流れてきたとき。

とくにキャッチーなイントロやぐんと音量が大きくなるサビを持つ曲に出会ったとき。

ぞくっとするほど透きとおっていたり、逆に身体中にずんと響く重厚感があったりする声で、歌詞に音が吹きこまれるのも。

 

 

スウェーデンの森で、木々や土、あらゆる生命が生きていることを五感フルに感じた時もそうだったかも。

つくりあげられたのではなくて、もうずっとそこにある、そのかけがえのなさに、気づいたらとにかく心が震えていました。

 

 

これまでの記憶をたどり、感じたことをそのまま言葉にのせ、気づきや感情をかたちにしている今このときも。ちゃんと、生きてる。

 

 

ただ「好き」っていう感情、感性に身をまかせたり、はたまた突き動かされてみたり、そういった時間の使い方を忘れかけていました。

 

 

というか、私にはそういう生き方が似合わないと、ちょっと諦めかけていたのかなと思います。

そうして、これが「良い/悪い」って自分の選択を正当化しようとして。でも世の中に“絶対的に良い”ことなんてないから、絶望することもありました。

 

 

私はこれから、社会に対して説明をする必要にせまられる時があるのでしょうか。

ええ、きっとあると思います。働く、とはまさにそういうことでしょう。

 

でも、自分自身の生い立ちとか、好き嫌い、何かに触れた時の感情のように、運命や巡り合わせとしか捉えられないものは、それはそれでいいと思えたのです。しかも大切にしたい。

 

 

これらを生まれながらにしてわかっている人は、何当たり前のことを言っているのだ、と言うかもしれません。

 

でも、行動原理に、感情と論理の両方があっていいのだと、そしてきっとそれぞれ必要な場合があるのだということを、わかっているのとそうでない場合では、世界の見え方がまるで違ってくる、そんな気がしたのです。

 

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