「大きな夢」って何だ?

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身の程知らずな夢を語るな。

 

ある人の夢について、誰かがこんなことを言ったら。

大きな夢を持ったって良いじゃないか。そんな言葉で人の可能性を潰さないで、夢を奪わないで。そんな風に言ってやりたくなる人もいるのではないでしょうか。少なくとも、好意的に捉える人はそう多くない気がします。

では、こんな言葉についてはどう思いますか。

 

そんな夢、勿体無い。もっと大きな夢を持て。

 

私は、どちらかというとこの類の言葉を何度も聞かされてきました。これはもしかしたら、時と場合で意味も受け取り方も違うかもしれません。ただ、私はこれを聞かされると、時々こう思わずにはいられないのです。

大きな夢、って、何ですか。

あなたが言う「もっと大きな夢」は、「そんな夢」に比べて本当に大きいですか。

 

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私は地方で生まれ育ち、今は上京して東京大学に通っています。

そんな私の夢は、地元で中学校国語科の教員になることです。

 

目指し始めたのは、中学2年に上がる春頃でした。学校や大人が信じられず、嫌いでたまらなかった私が、1年間で大きく変わりました。私の中学の先生方は、相手が子どもであっても一人の人間として向き合い、信用してくださる人ばかりでした。信用されていると分かるからこそ何でも思いっきり取り組めたし、信用を裏切れば(所謂)問題児・優等生など関係無く誰でも叱られました。勉強も好きになりました。先生から聞ける話や考え方が面白い上に、沢山沢山考えさせられて、挑戦させられて、その過程がまた面白いと思える授業だったからです。学校に来て人と学ぶこと・何かに全力を注ぐことが楽しいと思えるようになったのです。それ以来、「中学校の先生になって、学校を子どもがのびのび前向きに生きられる場にしたい」という夢を抱き続けてきました。

 

時々、「中学校の先生になるのに、何故東大に来たの?」と聞かれます。確かに、免許さえあれば教員採用試験に学歴はさほど関係ありません。初めから教員が第一志望で東大に入学した人はごく少数です。

私が東大を目指したのは、このままだと私がなりたい教員像になれそうになかったから。具体的に言えば、「視野が狭い」という弱点を教員になる前に克服したかったからです。

 

私は高校まで、「やるべきこと」と「一番自分が好きなこと(=音楽)」だけをやってきました。中学では勉強・生徒会活動と、合唱・ピアノ。高校ではそこから生徒会を引き算しただけ。自分としては目の前のことに夢中になっているだけだったのですが、気付いたらろくに新聞も本も読まずテレビも見ず、ボランティアや検定に挑戦することも無く、学校外のコミュニティに人脈を広げることにも関心があらず、教科も中学から好きだった国語で固まり、進路希望には教員養成系の大学・学部や、周囲の多くが志望していた近隣大学の文学部を書いていました。

ところが、高2の冬にある先生と面談し、このまま大人になって、先生になって大丈夫なのだろうかと不安を覚えました。

確かに、今まで何となく志望してきた大学で、十分中学教員になるための条件は整う。でも仮に教員になれたとしても、こんな目の前の世界しか見られない・知らない人間のまま生徒の前に立って、満足なのだろうか。自分はどんな教員になるのが理想なのだろうか。そう考え始めたら、大学4年間って、教員になる前に自分の「視野が狭い」という弱点を変える最後のチャンスなのではないか、と思ったのです。

きっと私みたいな人間がこのまま教員養成の大学に入ったら、教職に最低限必要なことにだけ触れて終わってしまう。このまま周りに流されて皆と同じ進路を選んだら、高校までと似たような環境でぬくぬく過ごして満足してしまう。

だったら、思い切って大学4年間は私の視野を一番広げられる場所に行きたい。そう思って選んだのが東大でした。長年過ごしたコミュニティから離れて、見知らぬすごい人たちに揉まれること。専門分野に進む前のリベラルアーツ教育。都会だからこそ手に入る、学門・文化あらゆる面での沢山の機会と選択肢。そういった環境で自分の視座と手札を出来る限り増やしてから教員になろうと思って、東大を目指したのです。

 

能力ありきの大学選択ではなかったので、東大での勉強や東京の生活に私の能力・キャパシティーでは追いつかない時もあります。教員採用試験に受かることだけ考えれば、教員養成系の大学に比べると随分遠回りだったかもな、と思うこともあります。それでも、自分からいろんなコミュニティや分野に突っ込んだり、東大・東京ならではの貴重な機会に沢山挑戦したりすることで間違いなく自分が更新されている実感があり、毎日が楽しいです。

高校の時は、もしかしたら夢が変わらないのも視野が狭いからじゃないか、大学に行ったら変わることもあるかもしれない、とも思っていました。けれどもむしろ、これらの経験を経て、教員になって生徒に伝えたいこと、一緒にやりたいことがぐんと増えました。大学で沢山のものに触れて、いろんな大人や先輩の話を聞いて、それで変わらなかったのだから本当にこれで良いんだと、自分の夢への納得・自信にも繋がっています。こうして得たものを地元に帰って還元したい、という気持ちも固まり、いよいよ来年地元で教員採用試験を受験します。

 

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大学に入学した頃、将来の夢を言うと多くの人が

「東大生なのに中学校の先生なんて勿体無くない?」

と反応することに驚きました。何で?と聞き返すと、官僚や大企業などもっと条件の良い就職先がある、他の大学からでも中学の先生には十分なれる、といった答が多いです。中には

「せっかくだからもっと大きな夢見ようよ」

とおっしゃる人もいます。さらにインターネット上になると

「東大卒の中学教員なんて、どうせ東大で落ちこぼれたやつしかいない」

「税金の無駄遣いでは? もっと高い志を持って国のために力を使え」

といった声も目にし、少なからず世にこういう考え方もあることに気付かされました。

 

それこそ私の視野の狭さや考え無しを案じて、或いは可能性に期待してのご厚意によることが多いのを承知の上で、それでもこれだけは一緒に考えてほしいのです。

確かに、国家公務員や大手企業の社員の方が、なるためにも実際に仕事するためにも、高度な知識や能力が必要かもしれません。教員として一県の教育に携わるよりも、国や世界を視野に入れた機関で働いたり、研究に力を注ぎ成果を上げたりする方が、少なくとも直接貢献できる相手は多いかもしれません。

けれども、その仕事の尊さに優劣はありますか。就くのが難しくて、グローバルな影響力を持つ仕事を志すことが「大きな夢」の条件ですか。

私にとって、地元で中学校国語科の教員になることは胸を張って言える「大きな夢」です。それは、何故なりたいかがはっきりしているから、そこでやりたいことが沢山あるから、いろんな選択肢を知った上でこれこそが自分が本気で目指せるものだと思えるからです。

自分の進路だから他人にどう評価されようと構わない――これも嘘ではないけれども、でもやはり、せっかくなら応援されたいです。所謂「いい大学」に入る人が皆、同じような目的で来るわけではありません。それぞれに真剣な夢があります。学歴やお金や地位だけではないものさしで、私たち若者の夢を見て、背中を押してほしいです。


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