不安について思うこと

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具体的な悩みや差し迫った危険が無くても、何か漠然とした不安を常に抱えていることってありませんか。

 

私は、“今自分がこの場で生きている” という認識が揺らいでいるとき、大抵焦りを覚えます。

昨日の自分を誰かが認めてくれて、今日の自分の存在を保証してくれている、という実感が欲しくなります。

例えば、SNSで誰かが「いいね」してくれないと、そこにあるはずの自分の投稿、つまり過去の自分が認められていない不安を覚えるとか。
「いいね」で承認欲求を満たそうとする心理はそこにあって、現在の自分の存在を保証されたい思いが強ければ強いほどそうなりますし、一度SNSでその感覚を満たすと中毒になってしまうように思います。

 

不安は未来の自分の存在に対しても起こります。

人生は「人が生きる」と書きますから、どう生きたって、一人で生きたって立派な人生です。

ただ人間には自己実現の欲求があります。

日本では最低限の欲求が満たされている人も多いですから、どうしても高次の欲求が大小関わらず発生します。

そんなことはないという方も、周りに高次の欲求を満たそうと努力している人が多ければ、多少なりとも焦りを感じませんか。

それが耐えられなくなって自分の世界を狭めたり、閉じこもってしまう人も多いと思います。

 

他者や人間関係、社会は煩わしいのと同時に、自己実現に含まれる大事な要素です。

他者の存在なしに “自己” の実現はできません。

ですから、人はコミュニティに入ろうとするわけです。

そのコミュニティに所属するだけでも自分が他者に認識されて安心する場合もありますし、さらにそこでの居場所が保証されて初めて、未来においても存在を許されているように感じることもあります。

しかし、常にある一定の程度のプレッシャーを周りからかけ続けられているわけですから、気づかないうちに私たちは疲弊してしまいます。

 

“このコミュニティに居続けるには期待に応えなくては”

“自分の地位を守るにはイメージを保ち続けなくては”

“周りに失望されたくない”

 

こんな思考でガチガチになってしまうと、ふと、何もかもどうでも良くなったり急に投げ出したくなります。

“皆から自分の記憶だけ消して遠くへ行ってしまいたい”

なんて思ったことはありませんか。

コミュニティでの存在が抹消されたら、そこでの自分は死んだということになります。

人はいくら死んでもいいように、たくさんの居場所を作ろうとします。

友達、恋人、クラス、サークル、、

逆に居場所が少ないと感じている人は、簡単にそのコミュニティから抜ける決心ができませんし、何か自分にとって衝撃的なことや嫌なことがあっても我慢せざるを得ません。

ですから、“コミュニティにおける自分の存在の抹消=自分自身の死” という極端な選択になってしまう場合もあるわけです。

 

実際のところ、自分は自分であり、自分が軸を持ってさえいれば、周りが自分をどう思っていようと大した影響にはなりません。

時が経てば大抵は笑い話になります。

時に多くの人に迷惑をかけ、失望されることもあるかもしれません。

ですが生きていれば仕方のないことです。

“迷惑をかけるかもしれない、失望されるかもしれない”

という不確定要素に押し潰されそうになっている方は、目の前の “相手” をよく見てみるといいかもしれません。

いったん疑心暗鬼から自分を解放してあげて、相手も同じ “不安” を抱えている人間だと開き直ると、人生は面白いほど単純になる気がします。

人間関係が煩わしく、期待が重く、時に自分の存在が揺らいでいても、“あなた” は “あなた” です。

“不安を感じていること” は、あなたが生きている “証拠” ですから、むしろその不安を愛してあげてみては?

不安でいっぱいの道のりを皆で一緒に歩いていきましょう!


 

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