口果報

ボイス
+7

茶亭と旗亭とを兼ねたる店は江都に数多いが、東海道を北へ南へ旁午する人波を少し離れて地下に潜った所なる小さな店の夜の部に、月一度ほど遊びに行っている。そこの給仕はくるくると働きながらも陽気に話しかけてくる。
 「柯北さんはいろんな言葉をやっていらっしゃいますけれど、どうしても外国語にならない日本語もあるんじゃありませんか。」
 「それはありますとも。」
正確には、一対一でそのまま対応する訳語のない言葉はいくらでもあるということである。身近なところでは「歩きスマホ」が挙げられよう。日本語の暴力的な造語法により一語で済んでいるが、英語ならば texting while walking と言わねばならない。
 この世の事象をどう切り取って一語にするか、言語によって実にさまざまである。古語には「御衣勝ち(おんぞがち)」という独特の語がある。体が小さくて服がだぶだぶであるさまをいう。「近勝り(ちかまさり)」は近づいてみると遠くで見るよりその人が美しく見えることをいう。「近劣り」はその逆である。いかにも平安時代の生活が偲ばれる。
 ある研究によれば、エスキモーの言語の一つであるユピク語 Yup’ik には「(魚やアザラシの類が)水面から半分体を出す」という意味の動詞があり1)、また『言語学大辞典』によれば、台湾の原住民族・アミ族の話すアミ語には、「歯の間にはさまった肉、野菜のすじ」を表す非常に便利な単語があるという2)
 「琉球語もなかなか味がありますよ。『美味しい魚』という意味の単語があります。マーサイユ。マーサンが『美味しい』でイユが『魚』です。『美味しい魚』は何と一語で表せるんですね。それからわたくしの好きな言葉にクェーブーってのがあります。『思いがけず美味い食べ物にありつけた幸せ』という意味で、クチガフーとも言いまして、これは日本語で言う所の口果報に当たります。」
 果報は寝て待てと言うが、口果報などという事態がそう滅多に生ずるものだろうか、こんな言葉を用いる場面に出くわすことがあるのだろうか、と思われるかもしれないが、存外頻繁にあるのである。寝てばかりいるわけではないからであろう。わたくしはいつも鞄に懐紙を忍ばせている。出先で急にお菓子を振る舞われても困らぬようにするためである。このように万全の準備を整えていると果報の方からやってくるものである。待っているだけではなくて、多少は行動をせねばならない。
 ある時、とある会が終わった後、わたくしの先生が藤娘よろしく花を背負っていらっしゃった。聞けば、
 「あちらのお席で飾っていらしたお花があんまり綺麗だったから、『綺麗ですね』って言ったらくれたのよ。」
 これはわたくしにとって大いなる啓示であった。そして必ず実践しようと思った。遊んでばかりいても十三経は読んだ身である。孔子の教えに従い、行いに敏であらねばならない。そして後進に範を垂れることの出来る者とならねばならない。
  

同僚でもあり後輩でもある人物が、名刺入れに入れているお香を甚く賞めてくれるので、早速同じ物を買って贈ってやった。「君は今、一つの人生訓を身に沁みて理解したことになる。『賞めよ、さらば与えられん。』」これが実践の一である。
 ある日、新しい小銭入れを買いに行った時には、店を辞するにあたって店員と少し話をした。その銘柄の小銭入れを買うのは初めてだが、香水は使っている。まことに結構な香りである。
 と言うと店員曰く、「そうでしたか。このあたりですと最も品揃えが良いのはビックカメラです。」これが実践の二である。見事情報を得ることが出来た。情報はただでは得られないのである。
 ある昼下がり、英語の教室で、たまたま隣に座ったご婦人の腕時計に目が留まった。金色の枠に嵌まった黒い文字盤には、これまた金色の花があしらわれていて、蒔絵のような趣である。いざcomplimentの練習をしようと、わたくしは挨拶をした後、その時計のことを口にした。
 「ありがとう。これはOLIVIA BURTON といって、これみたいにちょっとした絵のある時計を作ってるんですよ。」
 これが実践の三である。OLIVIA BURTON、雑学の肥やしになる情報を得ることが出来た。が、残念ながら時計は貰えなかった。これ偏に邪心あるがためであろう。果報は寝て待つに限るようだ。



1)Marianne Mithun, The Languages of Native North America, Cambridge: Cambridge University Press, 1999, p.37. “pug’uq”という動詞がこれである。
2)亀井孝・河野六郎・千野栄一『言語学大辞典』第1巻 世界言語編(上)(三省堂、1989年)449頁。

+7