日記のすヽめ

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皆さんは日記をつけているだろうか。私は小学生の約6年間絵日記をつけていた。今思い返すととても懐かしい。それ以降すっかり日記というものをつけなくなってしまったのだが、数ヶ月前から何か思うことがあったときはそれを携帯電話のメモに書き残すようにしている。以下に挙げるものはそのメモにある日記ではないのだが、私が以前某SNSに投稿した文章である(身バレ覚悟)。


先輩にお誘いいただき、廃墟の美術展と、買収により廃墟化が進む再開発予定地へ。

人間が持つ絶対不可侵のものは過去である、というのはある哲学者の言葉である。しかし人間良くも悪くも忘れてしまう生き物で、そうした過去と人とを結ぶ紐帯として建物(廃墟)や場所というものがあると思う。自然に人が住まなくなり、廃墟が生まれ、そしてそれすらも消えていくのであればそれは自然の性だろう。しかし、もし住人が納得せず半ば追い出される形で廃墟が生まれ、それが綺麗に消し去られ巨大なビルが建っているとしたら…

過去は確かに変わらない、しかしそれに思いを馳せる契機はこうも簡単に消し去られてしまう。人が廃墟に魅せられてきたこと、そしてそれは過去という、言わば私たち人が積み上げてきた財産への憧憬であることを再考させられるひと時であった。


今思うと少し気恥ずかしいのだが、やはりこのような思考はあの時、あの場所でなかったなら出てこなかったと思う。そしてこの文章を見返していると、夕暮れ時、人気のない住宅街に乾いた冷たい風が吹き抜けていった光景を、そのときのなんとも言えない物悲しさを思い出す。他にもメモを見返していると、自分がとても考えていたとは思えないこと、絶対忘れまいとあの時決意したはずなのにすっかり忘れていたことなど、様々なことが書き残されている。
私も気がついたら大学生活の半分が終わってしまい、振り返ってみて想起されるのはもちろんたくさんの思い出なのだが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に思うのは、「思い出せない」ことへの寂しさである。上の文章に書いた通りで、何かきっかけを作っておかないと自分の過去さえ人は忘れてしまう。無論、人は忘れるからこそ前に進むことができるという言葉もよく耳にする。しかしその「忘れる」には「思い出す」ことのできる可能性が残されているだろうか。それは記憶の「消滅」ではないのか。
「今日死ぬつもりで生きよ」という言葉があるが、具体的に考えればわかりやすい。友達と当たり障りのないことを話せる昼下がりはあと何回あるだろうか。私は田舎から上京しているが、帰省して母親の作る料理が食べられる機会はあと何回あるだろうか。1年に2〜3回帰るとして計算してみようとすると怖くなる。そしてそれらの記憶を思い出すことはあと何回あるだろうか。無限に感じられるし感じていたい、でもその数は限られていて、実はそんなに多くないのだろう。これから自分の「過去」として蓄積されていく「今」とは私たちが思う以上に貴重である。
私たちの「今」は「過去」と切っても切り離せない。昨日の喜び・悔しさが「今」の原動力となる。自分が今話している言葉は、かつて見たから、聞いたから知っている。自己紹介なんてもっとわかりやすい。所属?同じ学校・職場の人なんて何人もいるだろう。能力?富?自分より能力が優れた人、財産を持っている人なんて掃いて捨てるほどいる。そんなとき最後に残るのは、自分が辿ってきた軌跡、すなわち「過去」に他ならないのではないのか。「あの時こんなことをして、こんなことを考えて、あの時怒られて、泣きじゃくって、こんな素敵な友達に囲まれて…」それが自分である。「過去」とは「今の自分」そのものであり、そして「今」の蓄積の発露が「未来の自分」に他ならない。自分の一部を成す「過去」が消滅してしまうのは、なんだか自分が空っぽになってしまうようであまりにも悲しい。未来の自分は過去の自分を振り返って、自分が今日まで確かに歩んできた道程、出会うべくして出会い支えてくれた人々の存在に心温まるのである。
便利な時代になったもので、「今」を書きとめたり、写真に収めたりすることが今までにないほど簡単になった。だから、忙しい日々の中で、ちょっと一手間をかけて何か残してみるのはいかがだろうか。そのような「過去」という財産を大切にする営み、すなわち過去と今を結ぶ「紐帯」を大切にすることは「今」を、そして「未来」を大切にする姿勢へとつながっている。


 

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東京大学法学部。特にこれといった取り柄も財産もありませんが人と向き合うことだけは大切にしたいと考えている今日この頃です。