偶然生まれた皆さんへ

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はじめに:私は偶然生まれた

 

皆さんはときに、もっと綺麗な顔に生まれたかったとか、もっとお金持ちの家に生まれたかった、なんて思ったりするでしょうか。子供は親を選べない、というのはよく言われることですよね。では、果たして親が子供を選べるかというと、どうでしょうか。あなたの子供は、今あなたが望む通りの外見、知力、体力をもって生まれ、あなたの望む通りに生きるでしょうか。

時として障がいがある状態で生まれる人がいます。また、親が堅実な生き方を望んでも、「自分らしく」「好きなことを」が溢れる今日は特に、親子間で望む生き方の乖離が大きいケースも増えたのではないでしょうか。それでも子供を愛する、強い人間本性をもつのが親です(頭が上がらない)が、依然として私たちはどんな親の元に生まれるかは分からなかったし、親もどんな子供を授かるかは分からない。そんな中、私たちは偶然、ただ偶々、今の親子関係の下に生まれたと言えます。

しかし昨今、この『生の偶然性』を揺るがす生命技術が発展しつつあります。「デザイナー・ベイビー」といわれるものです。そしてこれが、大きな議論を呼んでいます。

デザイナー・ベイビーとは何か。生の偶然性が揺らぐことの意味は。そして今、私たちはどう生きるべきか。今回、これらについて、考えてみました。

 

1:デザイナー・ベイビーとは

デザイナー・ベイビーとは、「受精卵の段階で遺伝子を操作し、親の望む能力を備えさせること」を言います。望む能力――それは例えば外見であったり、知力であったり、はたまた体力であったり。実際の遺伝子操作技術は未完成で、現在利用されていません。が、現在利用されている類似した技術として、着床前の胚に対してダウン症児として生まれる可能性を診断するというものがあります。

今回は、特にこの受精卵の着床前診断に焦点をあててみます。これに対し、皆さんはどんな第一印象を持つでしょうか。もし、五体満足で、賢くて、持病もアレルギーもない健康な子供を授かることが確約されるなら、それは親にとってこの上ない幸せと言えるかもしれません。そして実際、この着床前診断でダウン症児が生まれる可能性が高いと診断された場合、9割以上が中絶を選んでいます。

しかし、この技術に対して、レオン・カスやサンデル、フランシス・フクヤマといった多くの現代哲学者が強く反論しています。彼らの主張は一貫して「広く人間本性に悪影響を及ぼす」というもの。それはいったいどういうことなのでしょう。

 

2:新技術を前に、鳴らされる警鐘

人間本性。それは哲学では、一般的に「道徳の実行可能性の限界を定めるもの」とされています。皆さんは、自分と親しい人であればあるほど、その人の命の危機には駆け付け全力を尽くしたいと思うはずです。この「駆け付け、全力を尽くす」という部分が、ここでいう「道徳」。そして、どの程度の親しさの人までその道徳を発揮するか、それがここでいう「実行可能性の限界」です。

つまりレオン・カスやサンデルらは、言ってしまえば「人間が総じて冷たくなる」と主張していることになります。閑話休題、その主張を具体的に見ていきます。

例えばダウン症の着床前診断が誰でも受診可能として、ある親がダウン症の可能性が高いと診断された中で(あるいは受診せずに)ダウン症の子供を出産したとします。親にとっては大切な大切な、愛すべき子供です。しかし、周囲から見るとどうか。それは、人によっては親の決定責任であるとの攻撃に転じる可能性があります――親はなぜ、分かっていてダウン症の子供を出産したのか。親が判断を「誤らなければ」私が払う公的援助への出費はもっと少ないのに――こんな具合です。

こういった考え方が広まると、年金や各種手当はじめ社会保障制度までも成立しえなくなります。「不『運』は個々の決定責任によるものだ、私達には関係ない」という考え方の伝播と、それに基づく攻撃。これがレオン・カス、サンデルらが恐れる「人間本性への悪影響」です。そしてこれは二次的に、上記で出産に臨んだ親に強い自責の念を植え付けることとなってしまいます。

そしてそれが2代、3代と続いたら。前述のケースで親に転嫁された責任は徐々に先天的なものとされていくかもしれません。不遇な状況は回避できるはずなのに不遇でいる人は、つまりは生まれる前から不運や不遇が決まっているのだ、とする考え方。この決定論的思考では、目の前で人が倒れ苦しんでいても、その理由を「運命」に押し付ける。「駆け付け全力を尽くす」ことがなくなる。自分は偶然、恵まれた立場に生まれたとか、そういった発想は人々の頭から消えていく。人間の一挙手一投足全てがいわばプログラムされたもので、苦しむ人は生まれながらにそう定められており、恵まれた人は生まれながらにそう定められている、こう認識されていってしまう。

これが、サンデルらが鳴らす警鐘です。

 

3:警鐘の裏に

ここまでで、新しい生命技術を前に、決定論的思考が拡大することへの危惧を述べました。しかし私は、現代社会において、新生命技術の利用を待たずとも、この決定論的思考は広がりを見せつつある気がしています――エスノセントリズム、Me First、COVID-19流行で再度シャープさを増した人種差別。

生の偶然性が排除されることへ示された危険性が、偶然性が存在する中でも見られる。私は、ここに偶然性の認識の問題が生じていると思います。何事も、然るべき形で認識されなければそれは別物。生の偶然性とは、本来どのように認識され、そして機能するべきものなのでしょう。

人は偶然を以てしていまの状況に生まれる――それは、言い換えると、自分の身の回りの、そして世界中の全ての人間は、理論上自分と入れ替わっていてもおかしくなかったということになります。仮にあなたが、誰かの境遇に対して不遇だとかかわいそうだとか思ったことがあるのなら、その人の環境のもとに自分が生まれても何ら不思議ではなかったということ。

もちろんこれは理論上の話です。実際にはそうはならず、例えばあなたは「日本に生まれてよかった」「身体障がいのある方は大変そうだ」などと思ったことがあるかもしれません。が、この離接的な関係性のメタ認知こそ、本来社会を支える倫理観の核といえるのだと思います。

生における偶然性、すなわち幸運不運の認識を問わず生まれる環境への等確率性。優しくあることに理由を求めるのは無粋だとは思いますが、もし仮に理由を示せと言われたら、私は人間を取り巻くこの生の偶然性という前提こそが、大きな理由であると主張します。

 

おわりに:偶然生まれた皆さんへ

今後、人の生まれ方が変わるかもしれない。そんな切り口から、社会的地位には社会的責任が伴う、という「ノーブリス・オブリージュ」的な結論にたどり着きました。この結論に、ありきたりだ、と思われた方も多いかもしれません。しかし私は、私が導き出した結論がありきたりだと思われることこそが、最善なのではないかと信じています。

偶然うまれた皆さんへ。あなたは今、何を思うでしょうか。

 

P.S.:この文章ではもの足りないあなたへ

私の文章で参照したのは、新しい生命技術へ慎重派のbio-conservativeと言われる立場の一端です。この立場に対し、新生命技術の導入に肯定的な立場をbio-progressiveといいます。この文章に留まらずより深く考えたい、この文章に「何か違う」と感じるなどなどの方は、これらのキーワードで調べてみてください。


 

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